B-02. 春の日の花と輝く

忍びである佐助の朝は早い。朝日がようやく昇り始めた頃、佐助は庭で白みゆく空を眺めながらひとつ欠伸をした。

「さあて今日も一日、お仕事お仕事…っと」

屋敷の者達はまだ皆眠っているようで、静まり返っている。聞こえてくるのは鳥の声くらいだ。そんな朝の静寂を堪能するのは、佐助の毎朝の密かな楽しみでもあった。

だが今朝は勝手が違っていた。佐助の目に意外なものが飛び込んできた。白煙だ。
「なっ、火が出たのか!?」
煙の元を辿ってゆく。どうやら炊事場の方からだ。俺様がいながらこの屋敷で火事を出すなんてとんでもない、と、佐助は慌てて炊事場に飛び込んだ。

「お…おお佐助か。随分と早いな」
そこには意外な人物が居た。幸村だ。煙に巻かれて咳込んでおり、目には涙を浮かべている。

「だ、旦那こそ、こんな朝早くにこんな所で何やってんの!?…いやそれよりこの煙は?…と、とにかく早く火を消さなきゃ!」
急いで水桶を手に取る佐助を、幸村は慌てて遮った。
「は、早まるな佐助!火事ではござらぬ!ちょ、ちょっと焦がしてしまっただけだ」
「焦がすって、何を」

佐助が幸村の手元を見やると、釜戸に置かれた鍋の中に、黒い物体が入っている。どうやら元は野菜だったと思われる。
「旦那…まさかと思うけど、料理してたの!?」

佐助に問われて、幸村は少しばつの悪そうな顔をした。
「う…うむ。だがなかなか上手くゆかなくてな。何度やっても炭のようになってしまうのだ」

佐助は焦げた鍋を見ながらふう、と溜息を吐いた。幸村は決して手先が器用な方ではない。しかも頭の中は常に戦の事ばかりで、戦場を駆け回り二槍を振るう事に命を賭すような無骨な男だ。そんな男がいきなり何の予備知識もなく料理など、猫に芸を仕込むより難しい。

「で、なんで突然、料理なんてしようって気になったの?しかもこんな朝早く」

幸村は一瞬うっ、と言葉に詰まったが、顔を赤らめ、しどろもどろに言った。
「そ、それはその…実は政宗殿から、一緒に花見をせぬかとお誘いがあった故…」
「なーるほどねぇ。それで、竜の旦那のために、手作り弁当を持ってってあげちゃおう、とか思ったわけね。いやー旦那も意外と甲斐甲斐しいねぇ」

佐助がからかい気味に言ったので、幸村は少し眉を寄せた。
「べっ…別に、政宗殿のためだけに作るのではなく、その、いつも片倉殿ばかりにお手を煩わせては悪いかと…故に俺は…」
「はーいはい、わかったから。それなら最初から俺様に相談してよ。今から作り直せば十分間に合うから。一緒にやろ、旦那?」

十七歳の戦馬鹿の主君にやっと訪れた遅い春に協力しようと、佐助は着物の袖を捲った。



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「それでは、行ってくるぞ、佐助!留守は頼む」
「はーいはい、道中気をつけてね、旦那。楽しんできなよ」

元気よく手綱を取る主君を見送り、佐助は大きく息を吸い込んで、ふうー、と吐き出した。
実際、幸村に料理を教えるのは重労働だった。物見の方がずっと楽だ、と思った程だ。あれほどまでに手先が不器用だとは、いくら戦人だとはいえ酷すぎる。奥州の竜の右目、片倉小十郎は、剣術の腕前も抜きんでている上に、野菜作りや料理なども器用にこなすというのに。

それでも、幸村は不器用なりに頑張った。元来真っ直ぐな性格故、佐助の助言も素直に聞いた。何度も指を切ったり、火傷を負ったりしながら、ようやくなんとか一人分の弁当を作り上げた。

「佐助、すまぬ。本当に感謝している」
そう言った時の幸村の嬉しそうな顔を思い出し、佐助は頭の後ろで手を組んで呟いた。
「まあ、いっか。旦那、頑張りなよ」



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「全く、見事でございますな」
咲き誇る桜を眺めながら、小十郎が感嘆の声を上げる。隣で盃を傾けていた政宗も、顔を上げて花に目を移した。
「桜の季節ももう終わる。今年はこれが見収めだろうな」

「まこと、季節の移り変わりは早うござる。花の命とは儚いものでござるな」
幸村の言葉を聞き、政宗は鼻先でふっと笑った。
「へぇ、アンタにも人並みの情緒があったようだな、真田幸村」

そう言われて幸村は少し口を尖らせた。戦馬鹿だということを遠巻きに揶揄された事も少し気に障ったが、それよりも真田幸村、と呼ばれた事が面白くない。出会った頃から、政宗は幸村の事をそう呼んでいる。確かに最初は刃を交える敵同士だった。立場的には、政宗は奥州筆頭、幸村は甲斐の武田軍の将と、ともすれば互いに相手の首を討ちとらんとする間柄である事には今も変わりがない。だが、第六天魔王・織田信長という共通の敵を得て、共に闘う事を決意し、討ち倒した。一時ではあるが、互いに互いの命を預け合った仲だ。もう少し砕けてくれても良いだろう、と、幸村は内心不満に思った。

「Sorry、気に障ったか?」
政宗が微笑しながら幸村の顔を覗く。口では悪いと言っているようだが、恐らくそうは思っていないだろう。幸村は更に口をへの字に曲げて言った。
「某も、花を愛でる気持ちくらいは持ち合わせているでござる」

「それよりも腹が減ったな。おい小十郎、弁当出せ!」
政宗の従兄弟、伊達成実が政宗と幸村の会話に割って入ってくる。政宗は呆れたような顔をして成実を見やった。
「…お前は情緒とか風情とか、そういうモンとは縁遠いようだな、藤五」
「花で腹は膨れねぇぞ、梵天」

親しげに幼名で呼び合う従兄弟同士を少し羨ましく見ながら、幸村は腰元に置いていた重箱を取り出そうとした。

「おお、こりゃ見事だ!相変わらずいい仕事すんな、小十郎」
小十郎が用意してきた重箱の蓋を開け、成実が声を上げる。幸村がそちらに顔を向けると、色とりどりの食材の入った重箱の中身が目に入った。本当に、これが竜の右目とまで呼ばれる凄腕の武将が作ったものか、と疑ってしまう程、凝った料理ばかり並んでいる。野菜なども綺麗に飾り切りされていて、芸が細かい。

「お褒めの言葉、痛み入ります。政宗様、どうぞお召し上がり下さい。真田、お前も遠慮せず食え」
小十郎に声を掛けられて、幸村は慌てて自分の持ってきた重箱を後ろに隠した。それを成実が目ざとく見つける。
「んー?幸村、何隠したんだ?」
「え、あ、いや、何でもないでござる!」
「何でもない、じゃねえだろ。今何か隠したよな?」
成実に追及されて幸村は焦った。こんな見事な弁当の前に、自分の作ったつたない弁当をおめおめと出す事など到底できない。

「何も隠してないでござるよ、ほら」
幸村は空の両手を前に出して見せた。不審な様子に政宗が怪訝そうな表情で幸村の顔を見る。幸村はさっと目線を外した。その瞬間、幸村の背後に成実の手が伸びた。

「んー、やっぱ隠してんじゃねえか。何だよこれ?」
「しっ…成実殿、返して下され!」
慌てて手を伸ばすがもう遅い。重箱は成実の手から政宗の手へと渡され、政宗がおもむろに蓋を開ける。
「何だこれ…弁当?」

政宗、成実、小十郎の三人は重箱の中を覗き込んでしばし絶句した。小十郎の作った弁当が色とりどりの色彩を放っているのに比べ、幸村の重箱の中身はどす黒い。どうやら、卵を焼いたもの、野菜と鳥…恐らくは鴨…の肉を煮たもの、何か…川魚だろうか…を焼いたもの、それに握り飯が入っていた。どれも形が不格好で、それが更に重箱の中の様子を陰惨なものにしている。

「すげーなあこれは。お前が作ったのか、幸村?もしかして、梵天にか?」
成実に言われて幸村は耳まで赤くした。顔から火が出そうだ。額にじわり、と汗が滲む。しどろもどろになりながら、この場を取り繕おうと、咄嗟に言葉を絞り出した。
「こ、これはその………そう、馬!馬にやろうと思って!だ、だから返して下され」
政宗の手の中にある重箱を取り返そうと、幸村は手を伸ばした。政宗はその手に目を遣った。
幸村の手は傷だらけだった。恐らく佐助が手当したのだろう、指には沢山の包帯が巻かれている。火傷の痕もある。戦や鍛練で負った怪我でないことは聞くまでもない。

「失礼いたす!」
幸村が政宗の手から重箱を取り返す。政宗はふう、と小さく息を吐いた。
「貸せよ、それ。俺が食う」

「政宗様!?」
少し驚いたように小十郎が政宗を見る。政宗は幸村の方に手を伸ばし、重箱を渡すように促した。
「え、だ、だがしかし…」
「馬にやるには勿体ねえだろ。俺が食うって言ってんだ。貸せ」
幸村はおずおずと重箱を政宗に渡した。梵天、度胸あるな、と成実がからかい気味に笑う。政宗は成実をじろりと睨んで小さい声でうるせえ、と言い、重箱の中の煮物を一つ、口に入れた。幸村は思わず体をこわばらせて息を飲んだ。

「美味い」
「え!?」
思いがけない政宗の反応に幸村、成実、小十郎の三人の声が揃う。幸村は目を瞠って政宗の顔を見た。
「美味えぜ、これ。見た目はまあ…残念だけどな」
政宗が続けて卵焼きを口に入れるのを見て、幸村は体から力が抜けてゆくのを感じた。戦場でもこんなに緊張した事は無い。思わず地面に手を着いて、大きく息を吐いた。

「どれ、俺も一つ味見してみるか」
政宗は重箱を覗き込む成実の頭を押しのけた。
「馬鹿言ってんじゃねえ、これは俺のだ。てめえは小十郎の弁当を食え」



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「正直、驚いたな」
小十郎が茶の入った竹筒を幸村に渡した。幸村はそれを受け取り、不思議そうに聞き返した。
「何がでござるか?片倉殿」
「政宗様が、他人の作った物をあのように無警戒に食されるとは。今までに無かった事だ」
「…確かに、政宗殿は一国の主でござったな。なれば、いつ誰にお命を狙われてもおかしくはないお立場。ましてや某は敵軍の将…されど、某は政宗殿を殺める気はござらぬし、毒を盛るような卑怯な真似は絶対に致さぬ」
幸村はきっぱりと言い放って小十郎を見据えた。小十郎もその真摯な眼差しに応えるように言葉を返す。
「てめえの事を疑っている訳じゃねえ、真田。だがな…」
小十郎の顔が曇る。幸村は小十郎の顔を見つめたまま、次の言葉を待った。

「政宗様は、かつて、実の母君に毒殺されかけた事があってな」
幸村は目を瞠った。実の母がまさか我が子にそんな惨い事をするなどと。竹筒を持った手が小さく震えた。
「一体なぜ…」
「政宗様が右目を失われた頃から、母君は政宗様を厭うようになられた。伊達家の次期当主が片目では…という体裁を気にされたのだろうな」
「そんな、右目を失われたのは政宗殿のせいではないでござろう!」

小十郎は小さく息を吐いて言葉を続けた。

「更に…母君は、政宗様の弟君の小次郎様を溺愛されていてな。どうしても小次郎様に、伊達の家を継がせたかったらしいのだ」
「そんな…そんな事で、実の息子を殺めようとなされたのか!」
幸村は唇を噛んだ。自分には、優しかった母の記憶しかない。実の母に毒を盛られるなどと、よもや誰が思うだろうか。その時の政宗の心中を思いやり、幸村は胸を痛めた。

「母君は…その後、どうなされたのでござるか」
幸村の問いに、小十郎は少し躊躇ったように口を噤んだが、やがてゆっくりと語りだした。
「政宗様は母君と親子の縁を切られ、母君はご生家へと戻られた…しかし、小次郎様は」
幸村は息を詰めた。

「家中の内乱を治める為、弟君のお命を、政宗様御自らのお手で」
それ以上は言われなくとも分かる。この戦国乱世、有り得ない話ではない。しかし…。

幸村は自分の兄の顔を思い浮かべた。兄はいつも自分を可愛がってくれた。家中の内乱の多い時代にあって、幸村は幸福な家に育ったといえるだろう。それに比べて政宗はなんと辛い道を歩んできたことか。若干十九歳で既に一国を担っている政宗の背にはどれほどの業が負わされているのか。

「ちょっと喋りが過ぎたか…真田、これは」
「分かっており申す。某、政宗殿には言わぬでござる」
幸村が真摯な表情で言うのを聞き、小十郎は安心したように軽く微笑し、酒を口に運んだ。

幸村は立ち上がって小十郎に軽く頭を下げ、政宗の居る方へ歩いて行った。

政宗は、春の陽光に誘われたのだろう、身体を仰向けにして静かな寝息を立てていた。
幸村はそっと隣に腰を下ろし、政宗の顔を見た。

春風が優しく政宗の髪を撫でてゆく。その度に右目の眼帯が露になる。幼い頃に失くしたという右目。この右目と共に、沢山の物を失ってきたのだろう。母の愛情も、弟の命も。
幸村は思わず政宗の右目に向って手を伸ばした。眼帯に指先が触れそうになるその刹那。

「Hey、そんなに見るなよ。穴が開いちまう」
政宗が薄く左目を開けた。幸村は驚き、慌てて手を引っ込めた。
「お、起きていたのでござるか」
「アンタの気配で目が覚めた」
「そ、それはなんとも…申し訳ないでござる」
幸村は項垂れた。
「某、失礼いたす故、ゆっくりお眠り下され…」
その場を立ち去ろうと腰を上げた幸村の腕を、政宗が掴んだ。
「別にいいさ。ここに居ろよ」
引き留められて少し困惑したが、幸村はその場に座り直した。

「まさむねどの」
「何だ?」
「その…ありがとうござり申した」
幸村に礼を言われて、政宗は不思議そうな顔をした。
「何がだ?」
「弁当…お食べ下さって。その…不出来な物で、誠に申し訳ない」

少し伏し目がちに言う幸村の顔を見、政宗は微笑して目を閉じた。
「気が向いたらまた作ってこいよ」
「え?」
幸村は聞き返したが返事は無い。再び柔らかな寝息を立て始めた政宗の顔を見ながら、幸村は少し微笑んだ。

政宗が自分に対して示してくれた信頼。それを思えば、名前などどう呼ばれようと些細な事だ。

「政宗殿、この幸村、この命ある限り…」

幸村は膝を抱えて、ゆっくりと目を閉じた。

風が桜の花を散らす。どこかで鶯の鳴く声が聞こえる。暖かな光に包まれて、いつしか幸村の意識も薄れていった。



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武田の屋敷からそう遠くない森で、木の枝に腰を掛け、佐助は独りごちた。

「見栄えは悪いけど、なんたって俺様直伝の味だからね。不味い訳がないよ」

空になった重箱と嬉しそうな笑顔を携えた主が帰ってくるのを、佐助はここで待っている。



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♪「春の日の花と輝く」
アイルランド民謡/作詞:トーマス・ムーア

Believe me, if all those endearing young charms
Which I gaze on so fondly today
Were to change by tomorrow and fleet in my arms
Like fairy gifts fading away.

Thou wouldst still be adored as this moment thou art
Let thy loveliness fade as it will
And around the dear ruin each wish of my heart
Would entwine itself verdantly still.

信じておくれ
人の心を惹きつける若さという魅力は
妖精からの贈り物のように
明日にも腕の中から消え去ってしまう定めなんだ

しかし君の愛らしさが色褪せる
まさにその瞬間でさえも
僕は君を変わらず愛し続けるだろう
そして移ろいの中でも
心の中の願いは青々と輝き続けよう


2009/10/12 up

まだ両想いになる前の話って感じです。幸→伊達っぽい。