B-07. 東風吹くや

「政宗殿」

幸村の呼ぶ声が聞こえたような気がして、政宗はふと目を覚ました。薄く左目を開けたが、辺りは未だ仄暗い。政宗は身を捩って横に手を伸ばし、褥を探ってみた。しかし、指先に触れるのは冷たい布の感触だけだった。

「いるわけねぇ…」

政宗はゆっくりと起き上がり、障子を開けて縁側に出た。もう四月になろうというのに、明け方の空気は冷え切っており、身を切られるように寒い。緩やかに白み始めた空を見上げながら、政宗は小さく息を吐いた。

「最後に会ったのはいつだったか…」

奥州の冬は長く、雪深い。その間は、幸村の居る上田城から奥州へ通じる峠道は完全に雪に閉ざされ、行き交う事もままならない。秋が過ぎ、空から白いものがちらほら舞い始めれば、それは幸村との暫しの別れを意味していた。政宗は元々冬が好きではなかったが、今迄これ程厭わしく感じた事は無かった。

「雪が解けたら、直ぐに参りまする」
別れの前の晩、幸村は政宗にそう言った。長い別離を惜しむように何度も身体を重ね、互いの体温を確かめ合ったが、今ではもうその温もりも思い出せない。幸村が奥州を去った後の褥はやけに広く漫ろ寒く感じられた。誰かを夜伽に呼べばそんな寒さも紛れるのだろうが、そのような気も起きなかった。ただ無性に幸村の身の熱が恋しかった。

「閨のひまさえつれなかりけり…か。俺としたことが、Coolじゃねえな」
政宗は呟き、もう一つ息を吐いた。白い息のその向こうに、誰かが歩いて来るのが見えた。

「政宗様…今日は随分とお早いですな」
小十郎は政宗の姿を見て少し驚いたような顔をした。

「目が覚めちまったのさ…。今朝も冷えるな」
「そのような格好ではお寒うございます。こちらをお召しになって下さい」
政宗は小十郎が差し出した羽織を受け取り、袖を通した。

「お前こそ…って、お前はいつも朝は早いんだっけな。ご苦労なこった」
「政宗様も、毎朝せめてもう少しお早く起きて下さればよろしいのですが」
しまった、藪蛇だったか、と、政宗は眉を顰めた。政宗は夜には強いが朝には滅法弱い。朝議があるのに寝過して、小十郎に諌められることもしばしばあった。そういえば幸村も鶏のように早起きで、よく政宗を叩き起こしては朝の鍛練に付き合わそうとした。勿論、頗る機嫌の悪い政宗がうるせえ、と一声浴びせて再び布団に突っ伏して終わりになるのだが。

「…そう言えば」
「ん?どした、小十郎?」
「先程、物見を命じていた忍の者より報告がございました。上田と奥州の間の峠道の雪が解けて、通行が可能になったようです」
「…そうか」

政宗は表情を変えずに答えたが、小十郎には主君の胸中が手に取るように分かった。冬の間中ずっとこの日を待ちわびていた事だろう。しかし、気が急いて今すぐに上田に発つ、などと言われては困る。小十郎は釘を刺すように言った。

「雪が解けたと言いましても、道はぬかるみ、まだ危のうございます故、上田に向かわれるのは今しばらくご辛抱を」
心中を見透かされたようで少々ばつが悪い。政宗は軽く舌打ちしながら言った。
「それくらい分かってる」
「良うございました」

もう暫くの辛抱だ。あと数日もしたら、小十郎が何と言おうと上田へ向かってやる、と政宗は思った。突然会いに行ったら、幸村はさぞや驚くだろう。その時の幸村の顔を思い浮かべて、政宗は軽く微笑した。



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余りにも早く目が覚めてしまったせいで、思わぬ時に眠気が来る。今日の朝議は政宗にとって非常に苦痛なものだった。重い瞼を無理矢理に押し上げ、臣下の報告を全て聞いた。朝議が終わると政宗は真っ直ぐに自室へと足を向けた。

「少し寝るか」

だが廊下の途中で政宗は足を止めた。何やら門の辺りが騒がしい。何か起きたか、と政宗は門の方へ向かった。騒ぎを聞きつけた小十郎も足早に駆けてくる。
「何があった」
「…分かりませぬ。とりあえず、行ってみましょう」

屋敷の入り口に立っていた人影を見て政宗は驚き、目を瞠った。

「伊達政宗殿はおられるか。お目通り願いたい!」

赤い戦装束、二振りの朱槍、首から下げた六文銭。紅い鉢巻を棚引かせてそこに居たのは、まぎれもなく真田幸村だった。

「ゆ…幸村?」
「おお、政宗殿!」
幸村が嬉しそうに駆け寄って来る。政宗は戸惑いながら聞いた。
「お前、どうやって来たんだ?」
「昨日、佐助から、峠の雪が解けたと聞いたので、すぐに上田を発ったのでござる。少々ぬかるんでおり申したが、別に問題は無かったでござる」
「問題あるだろ!馬が足を滑らせでもしたらどうするんだ!」

政宗に怒鳴られて、幸村は少し肩を落とした。
「申し訳ござらぬ…でも、こうして無事に着き申したし、それに…」
幸村は小さく息を吸って、言葉を続けた。
「一刻も早く、政宗殿にお会いしたかったのでござる」

幸村の言葉を聞いて政宗は一瞬、息を止めた。まるで、思い切り心の臓を鷲掴みにされたような気がした。焦がれる程に会いたいと思っていたのは自分も同じ。嬉しいような、切ないような、形容し難いこんな想いを、政宗は今まで抱いた事がなかった。しばし間が空いて、ようやく政宗は口を開いた。

「…Sorry、怒鳴って悪かった」

政宗は幸村の髪に手を遣り、耳元で呟いた。
「俺も、会いたかった」

幸村は一瞬、驚いたように目を大きく見開いて政宗を見た。そして柔らかく微笑み、そのまま糸が切れたように倒れこむ。政宗は慌てて幸村の身体を抱き止めた。

「おい、どうした!?」

幸村は政宗の腕に身を預けたまま目を閉じ、小さい声で言った。

「眠い…」

「一晩中、不眠不休で走り通しだったからねえ。流石に疲れが出たんじゃない?」
政宗が顔を上げると、いつの間にか目の前に佐助が立っていた。
「アンタも来てたのか」
「当然っしょ。真田の旦那、後先考えずに突っ走る所があるからねえ。危なっかしくて目ぇ離せないんだよ。旦那に万一の事があったら、俺達、真田忍隊は飯の食い上げだからねえ」
「Ha。世話の焼ける主君を持つと臣下は大変だな」
そちらもね、なんて言ったらえらい事になるな、と佐助は思って頭を掻いた。

「とりあえず俺様も一休みさせてもらうわ。じゃ、あとはよろしく、竜の旦那」
佐助はそう言うと、風のように消えていった。

幸村は政宗の腕の中で、どうやら本格的に眠ってしまったようだ。
「仕方ねえな…おい、小十郎、客間に床を延べてやってくれ」
「承知致しました。今すぐに」
小十郎は頭を下げ、客間へと向かって行った。

政宗は腕の中に目を落とした。久々に見る幸村の寝顔は安らかで、少し幼く見える。

「雪が解けたら、直ぐに参りまする」
その言葉通り本当に来やがった、全くこいつはどこまで一本気なんだか、馬鹿正直にも程がある、と政宗は思った。だが幸村のその一途な想いがひしと伝わってきて政宗の胸に沁み渡る。

政宗は幸村を抱き止めた腕に少し力を入れた。幸村の体温が伝わってくる。温かい、自分がずっと欲していたのはこの温もりだ。政宗はゆっくりと目を伏せた。

明け方には凍えるようだった風も、穏やかな陽光に包まれ、暖かな東風に変わっている。政宗は、まるで幸村が奥州に春を連れて来たようだと思った。


2009/10/15 up