D-03. 色は思案の外

「さなだゆきむら、もんだいはとけましたか?」

机の上に開いたノートの上に突っ伏しそうになっていた幸村は、声を掛けられて慌てて顔を上げた。斜め前の席で、数学担当の上杉謙信が幸村を見ている。

「すっ、すいません上杉先生!」
「まあ、このあつさでは、しゅうちゅうりょくがとぎれるのもしかたありませんね。すこしきゅうけいしましょうか」
謙信はゆっくりと立ち上がり、教室を出て職員室へと向かって行った。後に残された幸村は大きな溜息を吐いた。

「ああもう、帰りたいな…」

1学期の期末試験、苦手な数学で赤点を取ってしまった幸村は、夏休みだというのにこうして学校に来て、補習を受けている。自業自得とはいえ、高校に入って初めての夏休みにこれは辛い。さらに今日はまた格別に暑い。佐助は慶次と一緒にプールに行くって言ってたっけ、今頃二人は楽しんでいるだろうな、などと考えながら、幸村は机に伏した。

「Hey、サボってんなよ」
どこからか声がした。幸村が身体を起こして辺りを見回すと、窓の外に政宗が立っている。
「政宗先輩?」
なぜここに、と言おうとしたが、政宗の出で立ちを見て納得した。政宗は胴着を着ている。剣道部の練習の為に学校に来ているのだろう。

「政宗先輩こそ、部活に出なくていいんですか」
幸村はちょっと口を尖らせながら言った。政宗はひらり、と窓を飛び越えて教室の中に入ってきた。
「俺は休憩中だ」
「俺もです」

政宗はゆっくりと幸村の席に近付き、机の上に目を落とした。
「数学か…。Ha?なんだよ、全然できてねぇじゃねーか」
「…苦手なんです、数学」
「へぇ、じゃあ得意な教科は何だよ?」
「………体育」

政宗はちらりと幸村を見やり、呆れたように肩を竦めた。それを見て益々幸村の頬がふくれる。政宗は思わず鼻先で笑った。
「仕方ねえな。こんなの公式の応用だろ。貸してみろ」
幸村の手元にあった鉛筆を取り、政宗はノートに数式を書き始めた。政宗の顔が近付いたので幸村はどきりとした。

「いいか、ここ、説明するから、ちゃんと聞いてろよ」
政宗がノートを指さす。肘と肘が軽く触れた。幸村の心臓の音は更に大きくなった。やけに顔が熱いのは、今日の暑さのせいだけではない。落ち着け、緊張するな、と幸村は自分に言い聞かせたが、心臓の鼓動は早まるばかり。目の前でゆっくりと政宗の唇が動いている。低くて甘やかな政宗の声が耳に届くが、もう何を言っているのか分からないほどに幸村は動揺していた。

「それで、こっちが」
政宗の指がついと動く。幸村は慌ててそれを目で追おうとした。刹那、少し肌蹴た政宗の胴着の胸元から覗く、形の良い鎖骨が目に入った。普段、制服姿の時には分からないが、実は政宗の身体は相当鍛え上げられている。鎖骨の下の逞しい胸筋にもう少しで顔を埋められる程の距離に居る事に気付いた幸村は、邪な考えを振りはらうようにぎゅっ、と目を閉じた。
その瞬間。

ばこっ。

「あ痛っ!」

政宗が教科書を丸めて、幸村の頭を叩いた。
「お前、ぜんっぜん聞いてねぇだろ」
「あ、え、いえ、あの、す………すみません…」
幸村は申し訳なさそうに項垂れた。
「…ったく、そんな事じゃいつまでも補習終わんねぇぜ」
「すみません…」

幸村は肩を窄めた。ノートに目を遣ると、数式が沢山書いてある。幸村の為に政宗が書いてくれたものだ。政宗は真剣に勉強を見てくれていたというのに、自分はなんて不謹慎な、と幸村は恥ずかしくなった。
「すみません…俺、心を入れ替えて真面目にやります!」
握り拳を固めて力一杯言う幸村を見て、政宗は口許を上げた。
「Ha!まぁ、いい心がけだ、っつっとくか」

「政宗せんぱーい、練習始りますよー、どこですかー?」
窓の外から政宗を呼ぶ声がする。剣道部の後輩だろう。
「休憩終わり、か。じゃあな、俺は行くぜ」

政宗は窓の方に向って歩き出したが、ふと立ち止まり、踵を返した。幸村は不思議に思い、小首を傾げて政宗を見た。

「…」
政宗は無言で幸村に顔を近付け、右手で軽く幸村の頬に触れた。
「頑張れよ」
耳元でそう囁くと、政宗は軽く微笑し、再び窓に向かい、入ってきた時と同じようにひらりと窓を飛び越えて出て行った。



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「どうしました、さなだゆきむら?かおがあかいですよ」

職員室から戻り、教室へ入って来た謙信は、幸村の顔を見て言った。幸村は熟れた林檎のように真っ赤な顔をして、両手で頬を押さえている。
「な、なんでもありません、上杉先生」
幸村は慌てて首を振った。
「そうですか。では、ほしゅうのつづきをやりましょうか」

謙信は教科書を開いて説明を始めたが、幸村の耳には入らない。左頬に政宗の指の感触が残っている。心なしか政宗の指も熱を帯びていたような気がしたのは、この暑さのせいなのだろうか。政宗の一挙手一投足はいつも幸村の気持ちを乱す。何という事はない、ただ頬に触れられただけなのに。

「集中、できない…」

幸村は口の中で小さく呟いた。高校に入って初めての夏は、別の意味で本当に熱い。

幸村の頭の中はもう、数学の公式どころではない。



2009/10/14 up

上杉先生、漢字で喋って下さい…