「政宗様!起きておられますか!政宗様!!」
障子の向こうから小十郎のけたたましい声がする。その声で目を覚ました政宗は、強く殴られたような衝撃を頭に受け、顔を顰めて額に手を当てた。
「…っ痛ぅ…」
「政宗様!!」
廊下ではまだ小十郎が政宗の名を呼び続けている。その声ががんがん響き、頭が軋むように痛む。政宗は頭を抱えながら、なんとか身を起こし、擦れた声で言った。
「…うるせぇな、起きてるぜ」
「失礼致します!」
主の返答を聞き、小十郎は慌ただしく政宗の寝所に入ってきた。そして不機嫌そうに小十郎の顔を見上げる政宗の前に傅き、厳しい顔で言った。
「政宗様…先程、真田が甲斐へと帰ってゆきましたが」
「What!?幸村が?」
小十郎の言葉を聞き、政宗は怪訝そうな表情をした。幸村は久々に甲斐からやって来て、昨日奥州に着いたばかり。武田信玄の許しも得て来たといい、四・五日は滞在できると言っていた筈。幸村も政宗も久し振りに互いの顔を見られて喜んでいた。なのに突然、政宗に何も言わずに帰ってしまうとは、幸村らしからぬ振る舞いである。
「…どういう事だ?」
「それはこちらが訊きとうございます。一体、昨夜、真田と何があったのです?」
政宗は眉を顰め、痛む頭を擦りながら昨夜の記憶を呼び起こそうとした。
昨夜は大層、月の美しい夜だった。一人で眺めるのは勿体ないと、既に客間に延べられていた床に就いていた幸村を無理矢理起こし、共に月見酒をと誘ったのだった。
「…一緒に酒を呑もうと誘ったな」
「…それで?」
小十郎に問われ、政宗は更にその先を思いだそうとする。
酒は苦手だと言う幸村を酔わせてみるのも一興だと、政宗は幸村の盃にどんどん酒を注いだ。幸村は困った顔をしながら、ちびりちびりと酒を舐めていた。ほんの僅かな量だというのに顔を赤らめ目を潤ませる幸村の姿が何とも愛らしく政宗の目に映った。その様子を肴に、自然と政宗の酒も進んだ。
…だが、幸村を酔わせる筈が、いつの間にか自分の方が強かに酔ってしまった。そしてそこで記憶が途切れている。
「…覚えてねぇ」
政宗の言葉を聞き、小十郎は深い溜息を吐いた。
「真田は…何やら分かりませぬが、かなり機嫌を損ねていた様子にござりました。突然帰ると言い出した理由を問うても答えず、ただ、政宗様には会いたくない、と申しまして」
「…何?」
政宗は益々顔を顰めた。そこまで幸村に避けられる理由が思い当たらない。昨夜あの後一体何があったかと政宗は再び深く考え込んだ。切れ切れの記
憶の中で、幸村が必死に政宗を寝所まで連れて行った事が思い出された。
幸村の肩を借りて政宗は自分の寝所へ辿り着き、褥に身を横たえた。幸村が政宗の顔を覗き込み、心配そうに声を掛けてきた。
「政宗殿…大丈夫でござるか?水をお持ち致そうか?」
幸村の熱い掌が政宗の額に触れた。いつもよりも体温が高いのは酒のせいであろう。幸村の身の熱を感じ、俄に愛しさが込み上げた。そして徐に幸村の身体を引き寄せ、抱き締めた…所まで思い出した。
政宗は改めて自分の身形を見直した。しどけなく開けた夜着、乱れた褥。それを見れば昨夜何があったか想像するのは難くない。政宗は渋い顔をし、小さい声で呟いた。
「…やっちまった…か?」
「え?」
小十郎が怪訝な顔で聞き返す。政宗は気まずそうに下を向いた。
「いや、何でもねぇ…」
酒の勢いで幸村を抱いてしまったか。政宗の記憶には全く残っていないが、そうでなければ他に幸村が政宗を避ける理由が思いつかない。初めての事に衝撃を受け、政宗の傍に居る事が居た堪れなくなってしまったのだろう。奥手の幸村ならば充分考えられ得る。
「兎に角、真田の怒りの原因を突き止めねば。事と次第によっては、伊達と武田の間の諍いにまで発展するやも知れませぬ故」
小十郎が真面目な顔つきで政宗を見遣る。政宗は些か焦ったように言った。
「おいおい、いくら何でも、そこまでの事じゃ…ねぇだろう」
「そうだとは言い切れませぬ」
事情を知らない小十郎が真摯な面持ちで言う。流石に、幸村の怒りの原因が、幸村を無理矢理手籠めにしたかもしれないからだ…などとは小十郎には言えず、政宗は溜息を吐いた。
「…OK、分かった。幸村と話をしに、武田に行ってくる。小十郎、留守は任せるぜ」
「承知致しました」
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幸村が奥州を去ってから暫し後、政宗も幸村の後を追って甲斐へと向かっていた。政宗は馬を駆りながら色々な事を思い巡らしていた。
今まで政宗は伽をさせる相手に対して気を遣った事など無い。政宗が女を抱くのはその身に一時の快楽を与える為だけであり、それ以上でもそれ以下でもない。そして政宗が命じて拒んだ女など居ない。それが当たり前の事だった。
だが幸村だけは違う。幸村と互いに想いを交わした後も、政宗は幸村を大切に扱ってきた。幸村を早く自分の物にしたいと気が逸った事も何度もあったが、色恋事に疎く奥手な幸村を思い遣り、もう少し幸村の情緒が成熟するまで、と辛抱強く待ってきた。それも偏に幸村の事を愛しく思うが故だった。
それだけ大事に大事に花が咲くのを待っていた蕾を、自ら手折ってしまったとは。男に抱かれる事はおろか、女に手を触れた事も無い幸村だ。いくら酒の上の出来事だとはいえ、突然の事に酷く心を痛めているに違いない、そう思うと、自分の犯した事に、流石に政宗も罪悪感を抱いた。
「…ッたく、俺とした事が…」
幸村の顔を見たら、何と言えばいいだろうか、などと考えながら、政宗は甲斐へと急いだ。
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政宗が甲斐・武田屋敷の門前に着いた時、辺りは仄暗くなっていた。武田の門番は政宗の姿を見て驚いた様子を見せた。
「お…奥州の独眼竜!?」
「真田幸村に会いに来た。通せ」
「し…しかし…」
「さっさと通せ!」
政宗が門番と押し問答をしていると、不意に後ろから声がした。
「真田の旦那は竜の旦那には会いたくない、って言ってるけどねぇ」
その言葉に、政宗は顔を顰めて振り向いた。そこにはいつの間にか佐助が立っていた。
「幸村に話がある。会わせろ」
政宗は不遜に言い放った。佐助はふう、と息を吐きながら言った。
「駄目だって言っても無理矢理にでも通っちゃう人だもんねぇ、旦那は」
佐助は門番に政宗を通すよう促した。門番は少し困惑したような顔で、ようやく門を開けた。
「…幸村は?」
「真田の旦那は自分の寝所に居るよ。熱を出してねー。…あの健康優良児の旦那が熱を出すなんて、ホント、鬼の霍乱って感じだよ」
「熱、だと?」
政宗は驚いて佐助の顔を見た。そして視線を下に落とした。頑丈な幸村が熱を出すなど、それも自分の行いのせいだろうか。政宗は小さく溜息を吐いた。
「まぁ、分かってると思うけど」
佐助が徐に口を開く。
「真田の旦那は、十七っていう齢にしちゃ考えられない位、情緒が未発達だからねぇ。竜の旦那の気持ちも分かるけど、あんま無茶しないでやってよね」
妙に訳知り顔で佐助が言うので、政宗は思わず片眉を上げて佐助を睨み付けた。しかし今回ばかりは返す言葉が無い。小さい声で、言われなくとも分かってる、と呟き、幸村の居る寝所へと向かっていった。
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幸村の寝所の前で、政宗は暫し立ち竦んで居た。少し躊躇った後、意を決して部屋の中に向かって声を掛けた。
「幸村」
返事は無い。寝ているのだろうか。政宗はもう一度声を掛けた。
「…居るんだろ。俺だ。入るぜ」
「…まっ、待たれよ!」
部屋の中から幸村の焦った声がする。が、政宗は幸村の制止を聞かずに障子を開けた。幸村は部屋の中程に延べられた床に就いていた。政宗は部屋に入り、幸村の傍にゆっくりと座った。横になっていた幸村は慌てて身を起こした。
「無理して起きなくていい。…身体は大丈夫なのか。熱を出したって?」
政宗が尋ねると、幸村は政宗から目を逸らし、俯きながら答えた。
「…大丈夫でござる。大した事はござらぬ故」
そこで互いに言葉が途切れた。共に押し黙ったまま、暫くの時が過ぎていった。重い空気と沈黙に耐えかね、政宗は遂に核心に触れた。
「…何故、突然帰った?」
幸村は相変わらず俯いたままだったが、僅かに頬が赤く染まるのが分かった。政宗はそれを見て、言葉を続けた。
「昨夜…俺はお前に何をした?」
「…何も覚えていないのでござるか!?」
幸村が気色ばみ、そこで初めて政宗の顔を見据えた。政宗は項垂れた。
「…すまねぇ…」
幸村は目を伏せ、小さく唇を震わせた。掠れた声で政宗を責める。
「いくら…酔われていたとはいえ…突然、あのように不埒な真似をされるとは…」
その言葉を聞いて、政宗は改めて幸村にすまなく思った。秘め事が初めての幸村に対してどれ程の無理を強いたかすら覚えていない。政宗は幸村の身を厭うた。
「本当にすまねぇ。身体、相当辛かっただろう。どこか痛くはねぇか?」
「いや…別に身体は何ともござらぬが…」
幸村がきょとんとした顔で言う。政宗が何故それ程に自分の身を案じるのか分からないといった表情だ。
「…いくらお前が頑丈だとはいえ、その…初めてなら身体に障るだろ?」
「た…確かに初めての事でござったが、そんなに厭われる程、身体に差し障りはござらぬが…」
幸村が言うのを聞き、政宗は怪訝に思う。何かおかしい。話がすれ違っているような気がする。政宗は念を押すように訊いた。
「昨夜、俺はお前に何をした?」
瞬間、幸村の顔がかっと紅潮する。
「そ…某に、い…言わせるのでござるか!?」
「言え」
幸村は耳朶まで赤くし、しどろもどろに言った。
「さ、昨夜、某は政宗殿を寝所にお連れし…」
「覚えてる」
「強かに酔っておられたので、床に寝かせ…」
「それも覚えてる」
「そ、そうしたらば、政宗殿が、そ、某を抱き寄せて…」
「そこまでは覚えてる。そこから先を早く話せ」
幸村は額から汗を流し、口籠もった。少し苛立った政宗が視線で早く言え、と促す。幸村は戸惑いながら、呟くような小さい声で言った。
「せ…………せ…………接吻を…………」
「Ha!?」
政宗は思いきり眉間に皺を寄せて叫んだ。
「もう一度言え!」
「な、な、何度も言わせないで下され!!」
「いいから言え!」
政宗の剣幕に気押されて、幸村も思わず大声を出した。
「政宗殿は、某に無理矢理、接吻されたのでござる!」
「…で!?」
「…で、とは?」
「その後だ!それから!?」
「その後は…政宗殿は何事も無かったように、直ぐに眠ってしまわれたでござる…」
それを聞いて政宗はがくりと床に手を付いた。たったそれだけの事で動揺して、朝一番に奥州から甲斐へと逃げ帰ったのか。この男、奥手にも程があるだろう、と、政宗は腹が立つのを通り越して呆れ返った。
「それだけかよ!!」
政宗が怒鳴るのを聞いて、幸村は口を尖らせた。
「それだけ…って、政宗殿にとっては些細な事やも知れぬが、某に取っては一大事だったのでござ………い、いひゃい、いひゃいれごらる!」
一人前に口答えをする幸村の頬を、政宗は両手で掴み、思い切り引っ張った。痛がっているようだが構う事はない。幸村に無理強いをしてしまったと、政宗なりに心を痛めていたというのに。
「じゃあ、熱を出したってのは何故だよ?」
「佐助が、知恵熱だ、と言っていたでござる。どういう事でござろう?」
もう呆れて返す言葉も無くなった。政宗は深く長い溜息を吐いた。奥州から甲斐までの長旅の疲れが一気にどっと出たような気がした。
「Shit!…馬鹿馬鹿しい…」
政宗は吐き捨てるように言った。幸村はむっとした顔で政宗を見た。
「そ、某にも心の準備というものがあるのでござる!突然…あのような事をされるなど、思いもよらなかった故!」
「なら、今すぐ準備しろ」
「え…?」
政宗は無遠慮に幸村の身体を引き寄せた。吐息が触れる程に顔を近付け、幸村の顔を見据えた。
「準備できたか」
「な、え、ちょ、ちょっと待つでござ…」
「待たねぇ」
政宗は幸村の言葉を遮り、徐に唇を重ねた。そのままゆっくりと褥に幸村の身体を倒す。慌てて逃げようと顔を背ける幸村の唇を追い、政宗は更に深く口付けた。
「止め…!」
元々少し熱い幸村の身体が、更に熱を帯びてびくりと揺れる。政宗は、身を捩って抵抗しようとする幸村の身体を左手で、顎を右手で押さえつけた。
「No…止めねぇよ。少し身体に覚えさせてやるぜ」
政宗は不敵に笑い、再び幸村の唇を塞いだ。息が止まる程に唇を吸い、ゆっくりと舌を絡める。幸村は苦しげに顔を歪め、力一杯抵抗していたが、やがて身体からふっと力が抜けて、政宗を拒もうとしていた手がするりと床に落ちた。政宗は唇を合わせながら、幸村の顔を見た。幸村は固く目を瞑っていたが、微かに目を開けた。瞳が僅かに潤んでいる。熱のせいで火照った顔と濡れた瞳が妙に艶っぽく政宗の目に映り、政宗の情動が揺さぶられる。このまま情に流されて幸村を抱いてしまいたいという衝動に駆られたその刹那、佐助の言葉を思い出した。
『あんま無茶しないでやってよね』
政宗は少し眉を顰めて、唇を離した。乱れた息づかいの下、幸村が小さな声で言う。
「某を…どうなさるおつもりか」
政宗は徐に幸村の頬を撫でた。そして微笑しながら言った。
「今日のところは…ここまでにしといてやるぜ」
政宗は幸村の唇を優しく噛んだ。そしてゆっくり身体を起こした。幸村は力無く褥に横たわったまま、戸惑ったような恥じらったような表情で、ぼんやりと政宗の顔を見ていた。そんな幸村の様子を見て、政宗は苦笑し、呟いた。
「早く大人になれ、ガキ」
「…某、もう大人でござる」
接吻一つでがたがた抜かす大人が居るかよ、と思いながら、政宗はもう一度幸村に口付けた。抵抗する気を無くしたのか、幸村は今度は政宗の唇をすんなり受け入れた。
ずっと触れるのを我慢してきたのが愛しさ故なら、触れたい、全て自分の物にしたいと思うのもまた愛しさ故。それを幸村が理解できるようになるのは何時の事になるやら。全く厄介な相手に惚れたもんだ、と思いながら、政宗は幸村の唇に触れ続けた。いつか幸村の方から自分を求めるようにしてやる、と、自分の想いを幸村の身に刻みつけるように。
ただ黙って花が咲くのを待っているのは、政宗の性に合わない。中々開かぬ蕾ならばこの手で咲かせてやればいい。花は咲いてこそ花なのだから。
そんな政宗の心を知ってか知らずか、幸村が小声で呟いた。
「政宗殿…当分、お酒はお控え下され」
政宗は左目を見開いて幸村の顔を見、そしてふっと鼻先で笑った。
「…OK、次は素面で、な」
史実の政宗公はお酒に弱く、酒の上での失敗も多かったとか。なんとなくバサ宗様はお酒に強そうな感じがするのですが、敢えて酔わせてみました。酒は呑んでも呑まれるな(笑
月寒江清