B-04. 月夜に咲く花

障子の隙間から月の光が差し込み、幸村の顔を照らす。今宵の月はやけに明るく感じられ、幸村は少し目を細め、月光を手で遮った。

「眩しいな…」

いつも夜は早く寝る幸村だが、今夜はどうも目が冴えて眠れない。いや、冴えているのは目だけではない。胸の奥底から湧き上がってくる不可思議な感情に心を支配され、気が昂ぶっているのだ。何度も大きく溜息を吐いた後、幸村は褥の上にゆっくりと身を起こした。

「…俺は…一体どうしてしまったのだ…?」

小さく呟いてのろのろと起き上がり、障子を開けて廊下に出た。柱に手を付きながら庭を眺め、ついと顔を上げると、雲一つ無い夜空に、下弦の月が青く輝いている。

「弦月…」

月を見上げて、ふいに隻眼の男の顔が幸村の頭を過ぎった。俄に今日、自分の身に起こった出来事を思い出し、顔がかっと熱くなった。

「ま…さむね…殿」

幸村の記憶に鮮烈に残る、政宗の不敵な笑みと、熱い唇の感触。思い交わした者同士が唇を重ねたりするという事は、幸村も知ってはいたが、まさかこんなに突然、自分の身にそれが起きようとは、夢にも思っていなかった。幸村はぼんやりと自分の唇を指でなぞった。

「……………」

唇を合わせながら政宗は小さい声で嫌か、と訊いた。幸村は何も言えず、ただ顔を赤らめて目を逸らせた。それを見て政宗は軽く苦笑した。

嫌…なのではない。ただ、どうして良いのか分からなかった。合わされた政宗の唇は思いの外、熱を帯びていた。もっと冷たいものかと思っていた。熱く柔らかい感触を何度も重ねられ、幸村は自分の意識が何か全く別のものに支配されてゆくような感覚に陥った。初めは政宗を押しのけようと抵抗したが、やがて体から力が抜け、政宗の甘美な誘惑に流されていった。だが、それと同時に幸村は、政宗を受け入れる事に怯え、何度も消え行きそうになる自分の意識を精一杯繋ぎ止めようと必死になっていた。そんな幸村を見て政宗は言った。

「今日のところは…ここまでにしといてやるぜ」

その言葉を聞き、幸村は安堵した。そのまま政宗の熱情に流されていたら…と思うと、俄に怖くなった。政宗の望む所は薄々、幸村にも分かっている。だがそれを受け入れるには、まだまだ自分の心の準備ができていない。政宗は幸村の事をガキだと言ったが、そういう意味では自分の情緒はまだまだ幼いのだろう。それを知った上での政宗の思い遣りだったという事は、幸村も十分理解している。

「俺は…」

幸村は小さく溜息を吐いた。外の空気は涼やかなのに、身体の芯で焔が燃えさかっているかのように火照って熱気が籠る。佐助が煎じてくれた熱冷ましの薬が効いたので、既に熱は下がっている筈なのだが、どうにも身の内の熱さが冷めやらない。幸村は両腕で自分の身体をぎゅっと抱えた。そして再び月を見上げた。

「政宗殿…」

冴え冴えと美しい弦月は、否が応にも政宗の姿を思い起こさせる。何かに誘うような挑発するような、眼光鋭いあの隻眼が、いずこからか自分を見据えているような気がする。
ふと、幸村の鼻先に、政宗のつけていた麝香の香りが蘇った。唇を重ねた時、政宗の身体から立ち上った甘やかな蠱惑の香り。幸村は柱にもたれ掛かり、切なげな瞳で月を見上げ、甘美な記憶の残滓に心を奪われていた。そして無意識の内に、政宗の居る客間へと足を向けていた。



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政宗の為にと整えた客間の前で、幸村は足を止めた。夜も更けたというのに、部屋の中からは薄明かりが漏れている。部屋に入る前、政宗はこの屋敷の蔵書を何冊か貸して欲しいと言った。幸村は信玄の許しを得て、信玄の蔵書の中から三冊ほど政宗に手渡した。恐らくはまだそれを読んでいるのだろう。障子の向こうで蝋燭の明かりが揺らめき、政宗の影を映し込んでいる。

「………………」

政宗の名を呼ぼうとして、幸村は口籠もり、障子にそっと手をかけたまま、その場で立ち竦んだ。政宗に声を掛けて、一体どうしようというのだ。政宗を拒んだのは自分ではないか。幸村は口の中で小さく呟いた。

「俺は…何をしているんだ」

幸村は微かに息を吐き、踵を返した。床板を鳴らさぬように足音を忍ばせながらゆっくりと政宗の部屋の前から立ち去った。長い廊下を歩き、ようやく自分の寝所の前に辿り着き、大きく溜息を吐いた。

「詮無い事を…」

「声、掛ければ良かったのに」

「………!!」

不意に声がして、幸村は酷く驚いた。声のした方を見遣ると、月明かりの下、庭の松にもたれかかって佐助が立っている。

「さっ…佐助!の、覗き見などと、はっ…破廉恥だぞ!!」
「いやー、ごめんね−、旦那。覗くつもりは無かったんだけど。でも、あまりにも旦那がもどかしくってさー」

幸村は項垂れ、ばつが悪そうに口を尖らせた。佐助はそんな主君を見ながら、少し苦笑した。

「旦那は…竜の旦那が嫌いかい?」

「なッ…何を言う!…………嫌いな訳が…なかろう…」

幸村は、最後は呟くように声を出した。青白い月明かりに照らされた幸村の顔は仄かに紅潮している。答えなど訊くまでもないと分かっていたが、敢えて佐助は尋ねた。佐助は幸村の心を見透かすように言った。

「…竜の旦那が怖いかい?」

幸村は俯いた。口を開こうとしたが言葉が出なかった。佐助はそれ以上の返答を求めず、緩やかに言葉を紡いだ。

「…竜の旦那はさ、旦那の事を大切に想ってると思うよ」

幸村は目を瞠って佐助の顔を見つめた。そして僅かに瞼を落とした。

「…分かっておる」
「んじゃさ、もう少し竜の旦那を信用してあげてもいいんじゃない?」

佐助の意外な言葉に、幸村は目を瞬たかせた。佐助が政宗を擁護するような事を言うなど、思いもよらなかったからだ。静寂に包まれた屋敷の庭に佐助の影が伸びている。幸村はそれをぼんやりと見詰めながら、小さく息を吐いた。佐助はちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべ、言葉を続けた。

「まー、旦那は破廉恥だ!って言うかもしれないけど、思い交わした相手に触れたい、触れられたい、っていうのは、至極当たり前の気持ちだと思うよ。旦那だってそう思ったから、竜の旦那の部屋の前に行ったんでしょ?」

「なッ…」

図星を指されて反論する事ができなかった。麝香の香りに惑わされたか。自分でも意図せぬうちに、政宗の顔を、声を、手を、あの胸の暖かさを、唇の熱を求めていた事に気付かされ、幸村の心臓が早鐘を打った。

「もうちょっと自分の気持ちに素直になってみれば?旦那」

佐助に促され、幸村は少し困惑した顔をしたが、やがて小さく頷いた。

「すまないな…佐助」

佐助は軽く微笑み、幸村に向かって右手を振った。幸村も佐助に軽く微笑してくるりと振り返り、もう一度、長い廊下を政宗の居る部屋に向かって歩きだした。幸村の背中で一房の長い髪がさらりと風に揺れた。その後ろ姿を見送りながら、佐助は頭の後ろで手を組み、ふっと笑ってぽつりと呟いた。

「…それが恋ってモンだよ、旦那」



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改めて政宗の部屋の前に立った幸村は、再びその場で身の動きを止めていた。佐助に後押しされたものの、いざこうして来てみると、どうしたら良いものか分からない。先程まで部屋の中から漏れていた薄明かりは既に消えていた。流石にもう眠ってしまったのだろう、こんな夜更けに声を掛けては迷惑だと、幸村は一歩後退りをして、部屋の前から立ち去ろうとした。

その刹那、音もなく静かに障子が開いた。

「Hey、アンタさっきから一体何やってんだよ?」

「まっ、政宗殿!?」

突然の事に幸村は飛び上がらんばかりに驚き、よろりと後ろに蹌踉めいた。

「き、気付いておられたのでござるか?」
「当たり前だろ。その位の気配も分からないようじゃ、簡単に寝首を掻かれちまうからな。…で、どうした?」

「え、あ、いや、その…」

幸村は動揺し、口籠もった。己の内にある不道徳な思いを口にする事など到底できない。焦りに焦ってようやく言葉を振り絞った。

「しょ…書物は読まれましたか」
「Ah、全部読んじまったぜ。さすが虎のオッサン、いい蔵書を抱えてやがるな。機会があったら、他の書も読ませて貰いてぇな」
「そ、それは良うござった」

そう答えて幸村はまた言葉に詰まる。緊張の余り喉がひりつくように渇き、思わずごくりと唾を飲んだ。そんな幸村の様子を見、政宗はふっと鼻先で笑った。

「…ンな事、言いに来た訳じゃねえだろ」
「えっ…!」
「とりあえず、中、入れよ」

政宗は幸村の肩を抱いて部屋の中へと促し、障子を閉めた。蝋燭の消えた寝所は仄暗く、薄い月明かりが差し込むだけ。微かな光を頼りに、政宗は部屋の中央に延べられた褥まで足を進め、そこにゆっくりと腰を下ろした。幸村も戸惑っていたが、政宗の後に続き、褥の傍に正座した。

「…で?」

政宗は片膝を立てて頬杖を付き、微笑しながら幸村の顔を見た。薄暗い寝所で二人きりで差し向かいあうのは初めてで、幸村は動揺を隠しきれず、政宗から目を逸らして顔を赤らめた。政宗の部屋まで来てしまった事に対しての言い訳を色々と思い巡らせたが、上手い言葉が思いつかず、そのまま押し黙ってしまった。政宗は静かに幸村の顔を眺めていたが、軽く口許を上げて言った。

「俺の事が恋しくて、眠れなくなったか?」
「…!」

幸村の顔が俄に上気する。思わずこの場を取り繕うような言葉を探そうとした時、先程の佐助の言葉が頭を過ぎっていった。

『もうちょっと自分の気持ちに素直になってみれば?』

「……………」

幸村はぎゅっと唇を噛み、恥じらうような表情で小さくこくりと頷いた。幸村の事だ、破廉恥な、などと声を上げるだろう、と思っていた政宗は、終ぞ無い素直な反応に些か驚いたような顔をして幸村を見た。

幸村は俯いたまま、膝の上に置いた手を小刻みに震わせた。政宗の視線が自分の顔に注がれているが、目を合わせる事ができない。あの左目に心の奥底まで見透かされているような気がして、とても居たたまれなかった。戦場で対峙した時には、あの瞳に見据えられても一歩も退く事は無かったのに。ただ純粋に互いの強さのみを求めていた頃は、政宗を恐れた事なぞ無かったが、今は違う。怖いのだ。政宗が自分に向ける熱情が、そして、政宗に自分の心を曝け出す事が。

暫しの沈黙の後、政宗が小さく名を呼んだ。

「…幸村」

政宗は腕を伸ばし、そっと幸村の身体を自分の胸元に引き寄せた。身体がぐらりと揺れ、幸村は政宗の胸の中に顔を埋めた。

「…政宗殿」

政宗の身体から麝香の香りがし、幸村の鼻先を擽る。甘い香りに誘われて、幸村は政宗の腕の中に身を預けたまま、そっと政宗の顔を見上げた。政宗も幸村の顔を見下ろし、一瞬、視線が交差した。そして緩やかに唇が重なった。幸村は抵抗せず、ゆっくりと目を伏せた。政宗は深追いせず、軽く啄むように数回唇を触れさせ、そして離した。

「まさかアンタの方から俺を求めてくるとはな」

政宗が微笑する。幸村は気恥ずかしさに下を向いた。
「…某、破廉恥な事を…」
「どこがだよ。至極当たり前の事だろうが」

政宗は笑い、幸村の唇を指でなぞった。戦場ではあれ程荒々しく六刀を操る政宗の大きな手が、まるで赤子を抱くかのように優しく幸村に触れる。

「…どちらが…本当の政宗殿なのでござるか」

唐突に訊かれ、政宗は一瞬、怪訝そうな顔をする。
「Ha?何の事だよ」

「戦場での、蒼い稲妻のように激しい政宗殿と、今こうして某に優しく触れる政宗殿と…」

幸村は自分の唇に触れていた政宗の手をそっと握った。

「某は…知りたいでござる。政宗殿の事を…もっと」

幸村は小さい声で呟くように言った。僅かに声が掠れて震えた。そして自分が如何に大胆な事を言ったかと、我に返って俄に焦った。

「…あ、いや、それはその、変な意味ではなく…」
「変な意味って何だよ」

政宗が少し意地悪そうな笑みを浮かべた。幸村はしどろもどろになって自分の言った事を取り繕おうとした。

「…OK、分かってるって。無理強いはしねぇよ」

政宗は可笑しそうにくっと笑い、再び幸村を抱き寄せた。そして、今度は深く、唇を合わせた。幸村は少し躊躇いがちに、政宗の背に腕を回した。

「…知りてぇなら…いくらでも教えてやるぜ、いつでもな」

政宗は幸村を抱く腕に力を入れた。幸村は政宗に身を委ねたまま、小さく頷いた。愛しい者の体温を身近に感じる事がこんなにも心地よい事だと、幸村は生まれて初めて知った。そしてそのまま政宗の腕の中で、やがて幸村はゆっくりと微睡み始めていった。

「…やれやれ、やっぱりまだまだガキだな…」

政宗は苦笑し、軽く額に口付け、眠りに誘われた幸村を起こさぬように、そっと褥に寝かせた。柔らかい月の光が幸村の寝顔を照らす。あどけない、だが今まで固くその身を閉ざしていた蕾は今日、ゆっくりと綻び始めたのだ。焦らずともそう遠くない日、鮮やかな深紅の花を愛でる事ができよう。政宗は小さく息を吐き、幸村の隣に自分の身を横たえ、徐に目を閉じた。

いつの間にか、月は叢雲に隠され、辺りは宵闇と静寂の中に包まれていった。



2009/11/27 up

「酒は詩を釣る色を釣る」アフター話。
「酒は〜」から続けてみると、佐助が実に仲人さんしてる(笑)オカンご苦労様です!