B-05. 其は漣の如く

「政宗様は今、民の陳情を聞いておられる。すまないが、暫くここで待っていてくれ」

小十郎が幸村の傍に茶の注がれた湯呑みと、紅白の団子の乗った皿を置きながら言った。幸村が甘味を好むという事は小十郎も良く知っている。待たせてしまう事に対する詫びのつもりに、気を利かせて侍女に用意させたものだ。それを見て幸村は軽く微笑み、小十郎に向かって恭しく頭を下げた。

「かたじけのうござる、片倉殿。某、ここでゆるりと庭を眺めさせていただいておる故、お気遣いは無用にござるよ」

幸村の言葉を聞いて、小十郎も小さく頷き、自分も仕事があるからとその場を立ち去って行った。後に残された幸村は一人、政宗の私室前の縁側に腰掛け、美しく整えられた庭の風景を眺めていた。庭の真ん中に設えられた池で、ばちゃ、と何かが跳ねる水音がした。鯉でも居るのだろうか、とぼんやり考えながら、幸村は徐に湯呑みを手に取り、温かい茶で喉を潤し、ふうと息を吐いた。

「…政宗殿は、お忙しいようだな…」

政宗に会いたい、ただその一心だけで、武田信玄に許しを乞い、奥州までやってきてしまったが、政宗の都合を考えていなかった。一介の武将である自分とは違い、政宗は奥州筆頭、一国の君主なのだ。国の為、民の為、やらねばならぬ事が山積みで、自分などの相手をしている暇はそうそうないであろう、と、幸村は申し訳ない気持ちになった。

ふと空を見上げれば、吸い込まれそうな程の青さ。爽やかな初夏の陽光が降り注ぎ、何とも心地よい。どこからともなく聞こえてくる雀の囀りに耳を傾けていると、廊下の端の方から床板の鳴る音が近付いてきた。

「Sorry、待たせたみてぇだな」

足音の主はゆっくりと幸村に近付き、隣に腰を下ろした。そして傍らに置いてある手付かずの団子が乗った皿と幸村の顔を交互に見比べて、怪訝そうな顔をした。

「…どうした、アンタの大好物だろ?食わねぇなんて、腹でも痛いのか?」
「…某、それ程食いしん坊ではないでござる」

幸村はちょっとむっとした顔をし、口を尖らせて政宗を見た。が、直ぐに表情を変え、瞼を伏せながらすまなそうに詫びた。
「…お忙しい最中にお訪ねしてしまい、誠に申し訳ござらぬ…」

「No problemだ」

政宗は鼻先で小さく笑い、幸村の髪に手を置いて、くしゃっと掻き混ぜた。幸村は少し首を竦めたが、頭を撫でられた子犬のような嬉しそうな顔をした。政宗は可笑しそうに幸村の顔を眺めていたが、徐に両手を上に伸ばし、小さく欠伸をした。

「悪いと思ってんなら、膝貸せよ」
政宗はそう言い放つと、返事を待たずに、幸村の膝の上に頭を乗せて身を横たえた。

「なッ…!」

思いがけぬ行動に吃驚し、幸村は狼狽えたが、政宗は我関せずと言った顔で、ゆっくり目を閉じた。
「小十郎に朝早くから叩き起こされて眠くてたまらねぇ。このまま少し寝かせてくれ」
「しょ、承知致した。某でお役に立てるのならば…」
「…Ha。相変わらず、堅ッ苦しいな、アンタは」

揶揄するように笑い、直ぐに政宗は微睡み始めていった。誰かに膝枕をするなど生まれて初めての事で、幸村は緊張で思わず身を固くした。仄温かい日差しに照らされて、静かな時間が過ぎてゆく。つと下を向けば政宗が柔らかい寝息を立てており、規則正しく肩が上下している。その度に膝の上で政宗の顔が僅かに動いて擽ったい。なんとなくこそばゆいような気持ちになって、幸村は小さく身を捩った。

「ん…」

政宗の唇が微かに開き、小さな吐息が漏れる。起こしてしまったか、と慌てて顔を覗き込んだが、よく眠っているようだ。幸村はそっと、政宗の頬に手を触れてみた。いつもより少しあどけなく見える寝顔。普段は国主としての矜持を湛え、年齢よりも大人びて見えるが、そういえば政宗は自分と二歳しか違わない、まだ十九歳の若者であった。あの鋭い隻眼が閉じられただけで、こうも印象が変わるものかと、幸村は政宗の寝顔をゆっくりと眺めた。

ふと、形の良い政宗の唇が目に留まり、幸村の心臓がどきりと大きく音を立てた。初めてこの唇と触れ合ってから、そう時は経っていない。まだこの身はあの感触をよく覚えている。あの時、重ね合わせた唇から、幸村の心が流れ込んでいったような、また、政宗の心が流れ込んできたような、そんな気がした。幸村は無意識のうちに、政宗の唇を指先でなぞってみた。微かな熱が指先に伝わった。

「………」

一瞬躊躇い、幸村はそっと顔を近寄せ、自分の唇を政宗の唇に重ねた。政宗がするように上手くは到底できず、ぎこちない口付け。幸村の唇が小さく震えた。自分の心臓の鼓動がやけに大きく耳許で聞こえる。緊張で頭の中が真っ白になったところで、庭の松の枝に止まった雀が勢いよく羽ばたいて飛び立っていった。その音で俄に意識がはっきりして我に返り、幸村は慌てて唇を離して顔を上げた。

「俺は…何を…」

「随分と可愛い事をするようになったじゃねぇか」

いきなりの声に驚いて下を向くと、いつの間にか政宗が左目を開け、微笑しながら幸村の顔を見上げている。

「なッ………いつから起きておられたのでござるか!?」
「さあな」

政宗は意地悪く言い、ついと手を伸ばして幸村の唇を撫でた。

「まッ、政宗殿はお人が悪い!」

頬を桜色に染め、目を白黒させながら、幸村は政宗を責めるように叫んだ。思わず立ち上がってその場から逃げ出したいような気持ちになったが、政宗の頭が膝に乗っているので身動きが取れない。幸村は恥ずかしさで居たたまれなくなり、おろおろしながら自分の手で政宗の視線を遮ろうとした。政宗はその様子を可笑しそうに眺めながら、幸村の首の後ろに手を回し、ゆっくりと顔を引き寄せた。

「もう一度、してくれよ」

幸村の耳許で政宗が甘やかに囁く。幸村は政宗の腕に搦め取られたまま、首筋まで赤くした。

「なッ…何を申されるか…ッ」

「嫌じゃ…ねぇんだろ?」

政宗は幸村の髪をさらりと撫で上げた。左目を眇め、自信に満ちた笑みを口許に湛える政宗の顔を見て、幸村は照れたように少し顔を顰め、口の中で小さく呟いた。

「まこと、お人が悪い…」

政宗には見透かされている。幸村の気持ちも。政宗に触れたい、触れられたいと望んでいる事も。不埒な事だと自分を戒めつつも、政宗と唇を重ねる事に、いつの間にか喩えようもない恍惚感を覚えてしまうようになったその心の中も。

「…」

一時の沈黙の後、僅かの悔しさと、それを凌駕する愛しさを込めて、幸村はもう一度、政宗の唇に自分の唇をそっと触れさせた。二つの吐息が絡まり、幸村の身体が仄かに熱を帯びた。合わせた唇の下で、政宗が微かに微笑んだのが感じ取れた。

中庭の池から再び何かが跳ね上がる水音が聞こえ、水面には美しい正円の輪が幾重にも広がった。幸村は静かに、身の内に波紋のように広がる悦びに心を委ねた。



2010/01/16 up