C-02. 夢路辿りて

「ここは…何処だ?」

ふと気付くと、幸村は水に墨を溶かしたような薄闇の中に一人、立ち竦んで居た。辺りを見回してみたが、深い霧に包まれていてよく見えない。幸村は掌で軽く目を擦って、数回瞬きをした。そして、今、自分が置かれている状況について考えてみたが、何故か、何処に居るかも、今まで何をしていたのかも思い出せない。幸村は戸惑いながら、辺りの様子を探ろうと、ついと手を前に伸ばした。その時。

「誰だ!ここで何をしている!」

幸村の背後から険しい声がした。澄んで少し高い声。驚いた幸村が後ろを振り返ろうとしたその刹那、周囲を覆い尽くしていた深い霧がさあっと晴れ、一気に視界が開けた。薄暗く曇っていた空は青い色を取り戻し、明るい日差しが幸村の顔を照らした。幸村は眩しさに思わず目を眇めた。

「おい!俺の問いに答えろ!さもなくば、狼藉者とみなし、兵を呼ぶぞ!」

そう言われて、幸村は声の主に視線を移した。そして思わず、あっと小さく声を上げた。

そこに立っていたのは、十歳くらいの子供だった。きちんとした身形、立ち居振る舞いからすると、かなり身分の高い家の嫡子、といったところだ。こんな所に子供が一人で、と訝しく思ったが、なにより幸村が驚いたのは、その面差しが政宗にとても良く似ていたからだった。あどけないが整った精悍な顔立ち、そして眼帯こそしていないが、その右目には痛々しく白い包帯が巻かれていた。

「お前!名を名乗れと言ってるんだ!」

少年は仁王立ちになり、幸村を睨み付けて言い放った。幸村は慌て、少し身を屈めて少年の目線に合わせ、名を名乗った。

「し、失礼致した。某、真田源次郎幸村と申す。貴殿は?まだ十歳くらいとお見受けするが、何故、このような所に供も連れずに一人で?」

「…矢継ぎ早に言うな。ここに居るのは、俺の屋敷の前だからだ」

少年が幸村の後ろを指差した。幸村が振り返ると、背後に大きな屋敷の門があった。荘厳な佇まいのそれは間違いなく幸村の良く見知った屋敷だった。

「ここは…奥州の伊達屋敷?」
「そうだ。そして俺はこの家の嫡男、梵天丸だ。年は八歳」

その名を聞いて幸村は更に驚き、目を瞠った。確か政宗の幼名が梵天丸といった筈。伊達の嫡男、名が梵天丸、そしてこの隻眼。

「政宗殿…なのか?」
「What?まさむね?…誰だそれは。俺は梵天丸だと言っただろう。お前のその耳は飾りか何かか?」

梵天丸は腕組みをし、不遜に言い放った。小さいながらもこの尊大な態度と、幸村の知らぬ異国の言葉遣いは、正しく政宗に相違ないと、幸村は少し可笑しくなり、鼻先でふっと笑った。

「何が可笑しい!」

馬鹿にされたと思ったのであろう、梵天丸は肩を怒らせ、幸村に食って掛かってきた。幸村は慌てて頭を下げ、非礼を詫びた。

「も、申し訳ござらぬ、梵天丸殿。貴殿が某の知人に良く似ているもので、つい…」
「…俺がそいつに似ているんじゃない、そいつがこの俺に似ているんだ!」

まだ年端もゆかぬ子供だというのに、なんとも矜持が高い。政宗殿はこんな幼い頃からこうだったのか、と、幸村は更に込み上げる笑いを押し殺した。そしてはたと尋常ではない今の状況に気付き、瞳に困惑の色を宿した。

「俺は一体、どうなってしまったのだ…?一体ここは…」

小さく首を振り、おろおろと戸惑う幸村の姿を見、梵天丸は首を傾げながら訊いた。

「なんだお前、迷子か?」
「…ぬ、某、迷子になるような年ではござらぬ!」
「でも、迷ってんだろ」

迷っている、という言い方には若干語弊がある。ここが奥州の伊達屋敷ならば、幸村の良く見知った土地であり、自分の住む上田から何度も通った場所だ。だが何故、政宗が幼い姿になっているのか、一体今はいつなのかと、分からない事が沢山ある。問われても説明のしようがなく、幸村は押し黙ってしまった。梵天丸は目の前で膝を付いて目を伏せる幸村の姿を暫く眺めていたが、徐に口を開いた。

「中に入れよ」
「…え?」
「迷子なら、面倒くらい見てやる。困っている者は助けてやれと、父上も言われてたしな。その代わり、俺の相手をしろ。丁度退屈してたところだ」

そう言うと、梵天丸は幸村の手を掴み、ぐいと引っ張った。そして有無を言わさず強引に屋敷の中へと連れて行った。

「ま、待つでござる!そのように、素性の知れぬ者を容易に屋敷の中へ引き入れるなど、次期当主として危機感が足りぬのではござらぬか?」
「…お前、小十郎みたいだな」
梵天丸は眉を潜めながら幸村の顔を見上げた。その時丁度、庭の向こうから当の小十郎が息を切らせて走ってきた。

「梵天丸様、何者ですかその男は!?」
「おう小十郎、コイツは…えっと」

幸村は畏まり、小十郎に向かって深々と頭を下げた。
「某、真田源次郎幸村と申しまする」

小十郎は幸村にじろりと一瞥をくれ、梵天丸の方を向き直った。梵天丸は軽く頷いた。
「そう、幸村だ。…俺の客だ」
「客…って、この男、奥州の者ではございませぬな。素性の知れぬ者を易々と屋敷に入れるなど…」

先程、幸村に言われたのと同じ小言を繰り返され、梵天丸は不機嫌な様子を露わにした。

「うるっせぇな、小十郎。俺がいいって言ったらいいんだよ!…兎に角、幸村は俺の客だ。客間を用意してやれ。それと、コイツの分の夕餉も」

小十郎は渋い顔をしていたが、やがて御意、と頭を下げた。そしてついと幸村の傍に寄り、小声で言った。

「梵天丸様に免じて、客人として扱ってやるが、妙な振る舞いをしてみろ…ただじゃあおかねえ」
「心得申した」

幸村は真摯な眼差しを小十郎に返した。くるりと踵を返して客間の用意をしに行った小十郎の後ろ姿を見ながら、俺の知っている片倉殿よりもお若いな、と、幸村は軽く顎を撫でた。

本当にここは、自分が知っているよりも何年か前の奥州なのだ、と、幸村は溜息を吐いた。狐か狸に化かされているのか、それとも夢か。夢ならば何時かは覚めるであろうか、と、幸村はぼんやり考えた。そしてふと横を向くと、今まで隣に居た筈の梵天丸の姿が見当たらない。

「梵天丸殿?」

幸村がきょろきょろと辺りを見回すと、近くの部屋から梵天丸が木刀を二本手に持って飛び出してきた。そして一本を幸村に向かって放り投げた。

「お前、剣術は得意か?」
「…どちらかというと槍の方が得意でござるが…剣もそれなりに嗜んでいるでござるよ」
「OK、なら手合わせだ!」

そう言うと、梵天丸は嬉しそうに、勢い良く縁側から飛び降りた。

「いつもいつも小十郎が相手じゃ、面白くないからな!」

言うが早いか、幸村目がけて木刀を振り下ろす。咄嗟の事に慌てながら幸村はその一撃を避けた。

「ちょ、ちょっと待つでござる!いくら何でも…」

年齢差も、実戦経験の差もあり過ぎる。幸村も子供相手に本気を出す訳にはいかない。だが極めて不器用な幸村には程よい手加減なぞ出来はしない。幸村が躊躇って口籠もっていると、梵天丸は怒り、大きな声で叫んだ。

「子供だと思って馬鹿にするな!本気で来い!」

木刀を構え直した梵天丸の身体から静かな闘気が立ち上る。小さいとはいえ、なかなかの迫力がある。幼いながらも流石は奥州の独眼竜、伊達政宗というところか、と、幸村も真剣な顔つきになり、木刀を構えた。

「承知致した!真田幸村、いざ参る!」
「Ha!そうこなくっちゃな!」

木刀の交わる乾いた音が屋敷の中庭に響いた。小十郎に指南を受けているだけあって、梵天丸の剣の腕前はなかなかのものだ。だが、如何せん経験不足は否めず、幸村に二手先、三手先を読まれてしまう。ひらりひらりと身を交わし、自分の太刀を全て受け止める幸村を悔しそうに見ながらも、どこか梵天丸は楽し気だった。小十郎以外の強い相手と戦える事に、気持ちが高揚しているようだ。幼い頬が僅かに紅潮している。幸村も、こんなに新鮮な気持ちで手合わせするのは初めてで、いつの間にか夢中で木刀を振るっていた。

かあん、と高い音がし、気付けば梵天丸の持っていた木刀が手から跳ね上がり、からんと地面に落ちた。力に押された梵天丸はよろりと蹌踉めいて、後ろに尻餅を付いた。それを見て幸村ははたと我に返り、しまった、子供相手に熱くなり過ぎたか、と後悔し、慌てて梵天丸の傍へ駆け寄った。

「も、申し訳ござらぬ!某、なんと大人げない…」
「No problem、気にすンな」

そう言うと梵天丸は袖の先で額の汗を拭い、にやりと笑った。

「ウチの奴らは皆、俺に気を遣って、手合わせでも本気を出さねえからな。手抜き無しで戦り合えて楽しかったぜ」
「そうでござるか…そう言っていただけると、気が楽になるでござるよ」

幸村もにこりと笑った。梵天丸は少し照れ臭そうに、だが少年らしい笑顔を見せた。幸村は梵天丸に向かって手を差し伸べた。梵天丸はその手を取り、ゆっくりと立ち上がった。幸村が握った梵天丸の手は、幸村よりもずっと小さい。

(この小さな手が、いずれ六刀を振るう程の、あの大きな手になるのか…)

幸村は梵天丸の手をしげしげと眺め、感慨に耽った。
ふと気付けば辺りはもう仄暗くなり始めている。随分と長いこと手合わせをしていたようだ。

「梵天丸様、汗を掻かれたでしょう。湯殿の用意が整っております」

縁側の方から小十郎が声を掛けてきた。それを聞いて梵天丸は幸村の腕を掴んだ。

「幸村、来いよ。一緒に入ろうぜ!」

そして返事を待たずに、屋敷の中に連れてきた時のように、ぐいぐいと幸村を引っ張って、どんどん歩き出した。

「ちょ…ちょっと、ま…待たれよ!」

幸村は焦ったが、梵天丸は上機嫌で無邪気にはしゃいでいる。どうやら幸村はすっかり気に入られたらしい。ふと振り返ると、小十郎も仕方ない、という諦めたような表情で二人の方を見ていた。

湯殿に着くと、梵天丸は着ている物を無造作に脱ぎ捨て、足早に中へと入っていった。

「ぼ、梵天丸殿!湯帷子を…」
「要らねぇよ、ンなモン」

素っ裸のまま、勢いよく湯船に飛び込む。なみなみと張られた湯が溢れ、小さな波が立った。幸村も戦装束を脱ぎ、湯帷子を身に付けようとしたが、湯船の中から梵天丸が苛立たしげに叫んだ。

「遅ぇ!さっさと来い!逆上せるだろ!」

幸村は仕方なく、腰に手拭いを巻き付け、急いで中へと入って行った。広い湯船の中では梵天丸が伸び伸びと手足を広げ、寛いでいる。

「し、失礼いたす」

幸村はそろりと湯船に足を入れた。湯は熱すぎずも温すぎずもなく、適温に保たれている。膝を抱えながら肩まで湯に浸かり、天井を仰いで、心地よさに小さくふう、と息を吐いた。

「なんでそんなに畏まってんだよ?もっと寛ぎゃいいだろ」

梵天丸が湯の中で伸ばした足をばたばたさせながら訊いた。幸村はそろりと足を伸ばし、ちらと梵天丸の方を見た。

「そ、そのように湯帷子も着ずに無防備な…それに、破廉恥でござるぞ!」
「…はれんち?」

聞き慣れない言葉を聞いて、梵天丸は眉間に皺を寄せた。そして鼻先で笑った。
「堅っ苦しいヤツだな、幸村は」
「む…」

政宗にもいつも同じ言葉を言われている。自分では至極当たり前の事を言っているつもりだが俺はそんなに堅苦しいか、と、幸村は眉を寄せた。

「Ah、気持ちいいな」
梵天丸が大きく深呼吸をしながら濡れた手で前髪を撫で上げた。その時、包帯を取った右目の傷が露わになった。

(あ…)

幸村は思わず言葉を飲み込んだ。眼帯を取った政宗の右目の傷は、幾度も見た事がある。右目を失ったのは確か五歳の時だと言っていた。十九歳の政宗からすればもう大分長い時が経っているので、傷痕もかなり落ち着いているのだが、梵天丸のそれはまだ生々しく、酷く痛々しく幸村の目に映った。幸村は咄嗟に視線を逸らし、俯いた。その様子に気付いた梵天丸が、少し皮肉めいた笑みを浮かべて言った。

「醜いだろ」

自嘲気味のその言葉に幸村はがば、と顔を上げ、大きく首を左右に振った。
「そんな事はござらぬ!」
「…Ha、お為ごかしは要らねぇよ。分かってるんだ。この傷のせいで母上だって…俺を疎んで…」

梵天丸は口を噤み、幸村に背を向けた。温かい湯に浸かっているというのに、肩が小刻みに震えている。

そういえば小十郎から聞いたことがある。政宗は右目を失ったせいで母に疎まれ、あまつさえ毒殺されかけた事があると。右目を失くしたのは政宗のせいではない。なのに何故、実の母ともあろう方がそのような残酷な仕打ちができるのか、と、幸村は胸を痛めた。気丈に振る舞っているが、目の前の梵天丸はまだ八歳。まだまだ母が恋しい年齢だろう。死の淵を彷徨った重い病、そのせいで失った右目と、そして母の愛情。まだ年端もゆかぬ少年がそのような苦難を背負い、耐え続けている。幸村は梵天丸の胸中を慮り、目頭を熱くした。そして、後ろから梵天丸の身体を抱き締めた。

「…幸村?」

思いがけぬ事に梵天丸は驚き、振り返って幸村の顔を見た。幸村は泣き出しそうな顔で、それでも微笑み、梵天丸の右目の傷にそっと手を触れた。

「梵天丸殿は…お美しうござるよ」

今までに言われた事の無い言葉に、梵天丸は戸惑いの表情を浮かべた。幸村は梵天丸の髪を優しく撫で、ゆっくりと続けた。

「それに…いずれ、とても強い武将になられる。強くて、立派な武将に」

梵天丸は幸村の顔を見上げ、その真摯な瞳を見詰めながら訊いた。

「幸村も敵わないくらいにか?」
「…ぬ、某、そう簡単には負けぬでござるよ」

白い湯気の中、二人は顔を見合わせて、くすっと笑った。梵天丸は何か言いたげに口を動かしたが、湯殿の外から、長湯し過ぎては逆上せますぞ、と呼ぶ小十郎の声が聞こえ、二人は湯から上がる事にした。



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幸村は、自分の為に設えられた客間に入り、夜着に着替えて床に就いた。仰向けになり、ぼんやりと天井を眺めながら物思いに耽る。ここが過去の時代だというのなら、自分が過ごしていた時代はどうなっているのだろうか。自分が居なくなって、お館様は、佐助は心配しているだろうか。それに、政宗殿にはもう会えぬのだろうか、と、不安ばかりが胸を過ぎる。額に手を当てて大きな溜息を吐いた時、障子の向こう側から声がした。

「幸村、起きてるか」

梵天丸の声だ。幸村はゆっくりと身を起こし、部屋の入り口まで足を進めて障子を開けた。幸村の眼下に梵天丸が枕を抱えて立っていた。

「…一緒に寝よう」

梵天丸はそう言うと、幸村の顔を見上げた。今まであれほど強引に物事を推し進めてきた梵天丸らしくなく、黙って幸村の返答を待っている。幸村はその聡明そうな瞳を見詰めて柔らかく微笑み、首を縦に振った。部屋に入るように促すと、梵天丸は嬉しそうな顔をしてぱたぱたと駆け込み、布団の上にごろんと横たわった。

「ちゃんと布団を掛けぬと風邪を引くでござるよ」

幸村は自分も褥に入り、梵天丸の身体の上に掛布団を乗せてやった。梵天丸は興奮したように笑い声を立て、暫しはしゃいでいたが、やがて静かになった。

「なあ幸村、お前、自分の家が分かったら、帰っちまうのか」

梵天丸が小さな声で呟くように訊ねる。幸村は一瞬言葉に詰まったが、小さく頷いた。
「…某にも、待っている人々が居る故…」

すると梵天丸はがば、と身を起こし、ふるふると首を振り、眉尻を下げた。

「…嫌だ!」
「梵天丸殿?」

梵天丸は幸村に顔を近寄せ、真剣な眼差しで言った。

「…俺は、お前が気に入った。だからここに居ろ」

幸村は困ったような顔をして梵天丸を見た。梵天丸の澄んだ瞳に自分の姿が映っているのが見えた。梵天丸は幸村の両肩を掴み、更に言葉を続けた。

「俺はいつかきっと、この奥州を統べてやる。奥州だけじゃねえ、この国全部、天下を統べてやる!それが俺の夢だ!…お前も俺と一緒に戦え。俺の傍に居て、俺と一緒に天下を取るんだ!」
「それは…できぬ…」
「何でだよ!どうしてだ!?」
「某は…」

言いかけて言葉を止めた。未来の時の勢力図など、今の梵天丸に説明しても分かるまい。いつの時代に居ても、幸村は武田の将。いずれ奥州筆頭になる梵天丸の下に付く事はできないのだ。幸村の悲しげな顔を見て、梵天丸は泣き出しそうな顔をし、幸村にしがみ付いた。

「俺は…幸村が好きだ」

幸村は至極驚いて梵天丸の顔を見詰めた。政宗とは想いを交わし、今までに何度も身体を重ねたが、その口から、好きだ、という言葉が出た事が一度も無かったからだ。言葉なぞ無くとも政宗の気持ちは分かっているつもりだったが、時々、政宗の胸の内を計りかねて、もどかしい想いに駆られる事もあった。

だが梵天丸はいとも簡単に、真っ直ぐに、好きだ、という言葉を言ってのけた。幼さ故の純粋さ。恋ではなく、偏に幸村の事を兄のように慕っているのであろう。それでも幸村は胸の奥がじわりと温かくなるような嬉しさを感じた。そして梵天丸の小さな身体を引き寄せて抱き締め、そっと背中を擦りながら言った。

「…某も、梵天丸殿の事が好きでござるよ」
「じゃあ、ここに居ろよ、俺の傍に」
「……………」

幸村は答えなかった。代わりに、梵天丸の耳許で低く囁いた。

「離れても…いつかまた必ず、必ず巡り会えるでござる」

梵天丸はそれ以上何も言わなかった。幸村に抱き締められた身体が小刻みに震えていた。幸村の夜着の胸元がじわりと冷たくなったが、幸村は何も言わず、ただ優しく、梵天丸の背中を擦り続けていた。やがて梵天丸が眠りに誘われるまで。



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ちちち、と雀の囀る声が耳に届き、幸村は薄く目を開けた。顔に朝日が当たり、眩しさに一瞬目を細める。再び見開くと、目の前に政宗が横たわり、頬杖を付きながら、じっと幸村の顔を眺めていた。

「よぉ、生きてたか」
「…え?」

政宗に声を掛けられ、幸村は夢か現かはっきりしないぼんやりした頭で、きょろきょろと辺りを見回してみた。良く見慣れた、政宗の寝所だ。幸村は軽く手で目を擦った。寝惚けたような仕草を見せる幸村の顔を覗き込み、政宗が訊いた。

「アンタが寝坊するなんて珍しいよな。具合でも悪いのか?」
「え…いや…」

もごもごと口籠もりながら幸村はついと政宗の顔に手を伸ばしてみた。小さな梵天丸ではない、十九歳の政宗がそこに居た。だが、どこかにあの面影が残っている。暫し政宗の顔を見つめ、幸村は小さく笑みを漏らした。

「夢…か」
「夢…?どんな夢、見てたんだ?」

政宗殿の、と言おうとし、幸村は口を噤んだ。とても夢とは思えない、鮮明な記憶。胸に抱いていた梵天丸の温もりが、未だ腕の中に残っているような気さえする。

『俺は…幸村が好きだ』

梵天丸の、嘘も迷いも無い言葉、凛とした声が耳に蘇る。胸の奥に灯った暖かい篝火に手を翳すように、幸村はそっと胸元に掌を当てた。

「…?」

政宗は不思議そうな顔をして幸村を見ている。幸村は政宗の瞳を見詰め、徐に口を開いた。

「政宗殿は…某の事を、好きでござるか?」
「…Ha!?」

突然の問いかけに政宗は左目を瞠り、数回瞬いた。そして少々戸惑いがちな表情を見せながら訊き返した。

「何だよ藪から棒に。…まだ寝惚けてんのか?」
「もう頭ははっきりしているでござる。で、どうなのでござるか?」

珍しくも政宗に詰め寄る幸村からついと視線を外し、政宗は意地悪そうに口許を上げた。

「…さぁな」

予想通りの反応が返ってくる。幸村は眉を寄せて、はぁ、と大きな溜息を吐き、政宗にくるりと背中を向けた。そして口を尖らせて呟いた。

「…小さい頃はあんなに素直で可愛かったのに…」

「Ha…??」

さっぱり訳が分からないというように、政宗は顔を顰めて幸村の後頭部を見詰めた。幸村は両腕で膝を抱え、胎児のような格好で背を丸めている。

「何、拗ねてんだよ?」

政宗は腕を伸ばし、幸村の身体をくるりと自分の方に向けさせ、ぐいと引き寄せた。そして頬を一撫でし、軽く唇を合わせた。

「…今更…そんな言葉、必要ねぇだろ…」

そう言うと、政宗は幸村の胸に顔を埋めてきた。幼子が甘えるような仕草を政宗がするのは初めてで、幸村は少し驚いた。

「政宗殿…」

幸村は、政宗の手を取り、そっと握った。幸村よりも一回り大きい、逞しい手。あの小さかった梵天丸の手がこれほど大きくなるまでに、計り得ぬ程の努力をし、苦難を味わってきたに違いない。奥州を統べる、と言い放った少年は、それを実現させ、今はこうしてその双肩に奥州筆頭、という重い肩書きを背負っているのだ。

幸村はそっと政宗の背中に腕を回してその身を抱き締めた。そして優しく背を擦りながら、耳許で囁いた。

「また…巡り会えたでござろう?」

政宗からの返事は無かったが、幸村の胸の中で政宗が小さく微笑む様子が窺えた。政宗は、聞き取れない程の微かな声でそっと何か呟いた。幸村はそれを聞き返す事はせず、ゆっくりと目を閉じて、柔らかく言葉を紡いだ。

「…某も、政宗殿の事が好きでござるよ…」

あの切なくも優しい夢の続きを見ているかのような気持ちになって、幸村は小さく笑みを浮かべた。胸元で微かな寝息を立て始めた政宗の体温を感じながら、幸村も再びゆるゆると微睡み始めていった。薄れゆく意識の中で、幸村はうっすらと感じていた。今、この瞬間こそが、まさしく幸福でうつくしい夢そのものなのだ、と。



2010/01/23 up

※2010/02/06 終盤部分をちょっと修正しました。