微睡みの中、政宗はいつもの夢を見ていた。物心付いた頃から、何度も何度も繰り返し見るようになったあの夢を。
夢の中で政宗は、誰か、とても懐かしい誰かをずっと探している。だが、どれ程探しても、どうしても見つける事が出来ない。顔を思い出そうとしても、その記憶は朧げで、思い出す事が出来ない。はっきりと覚えているのは、とても温かい、心の底まで沁み透るような、あの身の温もりだけ。それ以外は何も分からず、政宗はいつも、闇の中を当所も無く彷徨い続けていた。
「う……」
「政宗君?」
夢の途中で揺り起こされて政宗は目を覚ました。辺りは未だ暁闇の中にある。政宗は怪訝そうに辺りを見回し、ゆっくりとベッドの上に半身を起こした。
「どうしたの?魘されていたみたいだけど」
ようやく闇に慣れてきた左目に、髪の長い女の姿が映る。顔は良く見えない、誰だったか…。政宗はまだ少しぼんやりした頭で、昨夜の記憶を呼び起した。…そうだ、街で出会って連れ帰ってきた女だ。一夜を過ごしただけの相手で、名前すら覚えてはいない。
「ねぇ、大丈夫?」
女が政宗の額に手を当てる。ひたりと生温かい感触。政宗は疎ましげにその手を振り払った。
「触るな」
「え…?」
「……帰れ」
女は政宗の言葉を聞いて顔を顰めた。
「な、何よ、こんな時間に女を一人で放っぽり出そうっていうの!?」
政宗は億劫そうに壁に掛けられた時計に目を遣った。時計は四時を指している。
「始発、あるだろ。さっさと出て行け」
その言葉を言い終えた瞬間、女の平手が政宗の左頬を打った。政宗は無言のまま身じろぎ一つしない。女は悪態を吐きながらベッドから降り、服を着ると、後ろを振り返りもせずに出て行った。
政宗は隣が空いた広いベッドの上に、再び裸身を横たえた。未だ微かに女の温もりが残っている。それが無性に厭わしく感じられた。
…こんな温もりじゃねえ、俺が欲しいのは。
政宗が声を掛ければ着いてくる女は幾らでも居た。一夜の慰みにとこれまでに何人もの女を抱いたが、どの女もその身に一時の快楽を与えるのみで、心までも満たしてくれる相手は一人として居なかった。政宗は仄暗い闇の中、天井を見上げながら呟いた。
「…お前は、誰だ」
顔も名前も、男か女かも分からない。だが、確かに自分はその誰かを探しているのだ。そう、多分、遥か昔から。その誰かの事を想うと、胸の奥が締め付けられるように、ぎり、と痛む。それ程までに望む相手との邂逅の時がいつか訪れるのだろうか。そんな事を考えながら、政宗は徐に目を閉じた。
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「政宗様、起きて下さい。学校に遅れますぞ」
小十郎に起こされて政宗はゆっくりと目を開けた。窓からは柔らかな朝日が射し込んでいる。政宗は眩しさに思わず目を細めた。
「…朝か」
「朝食の用意が出来ております。急ぎ、お支度を」
小十郎は政宗に制服を手渡しながら言った。政宗はのろのろと制服に袖を通し、リビングへと移動した。気だるい様子でテーブルに着き、新聞に目を通しながら、やおらコーヒーを口元に運ぶ。
「政宗様、お急ぎ下さい。今日から新学期でござりましょう。初日から遅刻しては…」
急ぐ様子の無い政宗を見かねて、小十郎が苦言を呈す。やれやれ、朝から小言かよ、と政宗が肩を竦める。
「新学期、ったって特に変わり映えはしねえよ。クラスと担任が変わるぐらいさ。それよりも、中途半端な時間に目を覚ましたせいで、体がだるくて仕方がねぇ」
「中途半端…?」
「Ah、明け方四時頃、な。妙な夢は見るし、辺りはまだ真っ暗闇だし、薄ら寒ィし。四月っつったって、夜明け頃はまだ冬みてぇなモンじゃねえか。全く、憂鬱になるぜ」
政宗が小さく溜息を吐く。その姿を見ながら、小十郎がちくりと釘を刺す。
「寒いのは、何もお召しにならずにお休みになったからでしょう。それに…」
政宗は眉を顰めて小十郎を見上げた。小十郎はそれを気にせず、政宗の鞄を手に取りながら言葉を続けた。
「冬来りなば春遠からじ、でございますぞ。また、夜明け前の闇は確かに深い、ですが、明けぬ夜など決してござりませぬ」
小十郎が微笑しながら、政宗に鞄を手渡した。政宗はそれを受け取り、軽く苦笑した。
「Ha!お前らしい言い草だぜ。じゃあな、後は任せた」
「行ってらっしゃいませ。お気を付けて」
小十郎が深々と頭を下げる。その様子を後目に、政宗は家を出、学校へと足を向けた。
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「ちッ…やっぱり、ロクな事がねぇな」
廊下を歩きながら、政宗は眉間に皺を寄せて独りごちた。今日から高校生活最後の一年が始まるというのに、よりによってクラス替えで、中学の時から浅からぬ因縁のある長曾我部元親と一緒になるとは。あの野郎と一年間、顔を突き合わせて過ごすなんて冗談じゃねぇ、と政宗はもう一度舌打ちをした。
「…ウザってぇ。フケるか」
三年の校舎へ向かっていた政宗は立ち止まり、踵を返した。下駄箱へと戻る途中で一年の校舎に差し掛かった時。
「うわー、急がなきゃ!」
廊下の反対側から一人の男子生徒が走ってくる。まだ身の丈に合わない、少し大きめの学生服。恐らく一年生だろう。すれ違い様に目に入った、首筋から伸びる一房の長い髪が印象的だった。政宗はふと足を止め、振り返ってその男子生徒に目を向けた。
「アイツは…?」
その時、男子生徒の目の前に、ぬっと大柄の男が現れた。俄の事に男子生徒は立ち止まる事ができず、男に勢い良くぶつかった。男子生徒は右手で鼻を押さえながら、男に向かって詫びた。
「うわっ、すみません………って、武田先生!?」
男子生徒が驚いた表情でぶつかった相手の男を見上げた。そこに立って居たのは、体育教師の武田信玄だった。信玄は男子生徒に向かって大声で怒鳴った。
「幸村ァーーー!!新学期早々遅刻とは弛んでおるぞ!!早ぅ自分の教室へ行かぬかッ!!」
「もっ…申し訳ありません、武田先生ッ!!」
幸村、と呼ばれた男子生徒は深々と頭を下げ、失礼します、と叫んで再び走り出した。
「ゆき…むら…」
政宗は掠れた声でその名を呟いた。政宗の胸中を何とも言いようのない感情が過ぎる。そして矢庭に走り出し、幸村の後を追いかけた。だが幸村の足は速く、あっという間に自分のクラスまで辿り着き、ドアを開けて中へと入って行ってしまった。流石に一年の教室に入ってゆく事ができず、政宗はドアの前で立ち止まった。
「幸ちゃん、遅いじゃんー。何やってたのさー」
「いや……ちょっと、校舎の中で迷っちゃってさ…」
教室の中から幸村の声がする。どこか聞き覚えのある、どこか懐かしい声。…そうだ、俺はアイツを知っている、と政宗は思った。確信は無いが、政宗の胸の奥には、幸村を見た時から何か、揺り起こされる想いがある。それは歓喜でもあり、悲哀でもあるような、筆舌に尽くし難い感情。それが一体何なのか、政宗はどうしても確かめたくて、幸村の教室のドアに手を掛けた。…が。
「こぉらっ、伊達!こんな所で何やってる!もうホームルームが始まるぞ!!」
軽く頭を叩かれ、政宗が振り返ると、政宗の新しいクラスの担任の前田利家が立っている。
「ちッ…厄介な奴に見つかったな」
「聞こえてるぞ!厄介とは何だ、担任に向って。そらッ、さっさと教室に行くぞ!」
利家は無遠慮に政宗の腕を掴み、そのまま三年の教室へと引っ張って行った。政宗は仕方なく利家に付いて行ったが、心残りな様子で今一度振り返り、幸村の居る教室に目を遣った。
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「…もう帰っちまったか」
空の教室を覗いて、政宗は呟いた。先程、幸村が入って行った教室。進路指導などがありホームルームが長引いた政宗のクラスとは違い、一年は皆、早々に帰宅していったようだ。政宗は暫し、幸村のクラスの前に立っていたが、やがて諦めたように歩き出し、下駄箱へ向かった。
「おーい、伊達!」
後ろから利家の声がする。またかよ、と思い、顔を顰めながら政宗は足を止めた。
「…今度は何だよ」
「何だよ、じゃない。お前、東都大学狙ってんだろ?あそこは国立だし、偏差値高いし、色々大変だぞ。今日みたいにサボろうとなんてしないで、ちゃんと授業に出ろよ」
「…余計な世話だ」
俺は担任だぞ、と利家が気色ばむ。政宗は意に介さずといった様子で、するりと立ち去ろうとした。その時、どこかから大きな声がした。
「おーーーーい、利ィーーーー!!」
一年の校章を付けた男子生徒が、笑顔で手を振りながら利家の傍へと歩いて来た。かなりの大柄で、長い髪を旋毛の辺りで結わいている。肩には小さな猿が一匹、ちょこんと乗っかっていた。
「お、おい慶次、お前、夢吉連れてきたのか!?まずいぞ、学校に動物は」
「ンな細けぇ事気にすんなって、利。夢吉は俺の大事な相棒なんだから。なッ」
慶次と呼ばれた男は、後ろに向って同意を求めた。すると後ろから二人の男子生徒がひょこっと顔を覗かせた。
「うーん、やっぱり動物はまずいんじゃないの?どう思う、幸ちゃん」
「…俺も、そう思うけど」
そう答えながら慶次の後ろから現れたのは幸村だった。その場を去ろうとしていた政宗は思いがけない事に驚き、はたと立ち止まって幸村の顔を見た。
「おや慶次、友達か?」
利家が慶次に訊ねる。慶次は二人の肩に手を掛け、利家に紹介した。
「佐助と幸村。二人共、同じクラスだ」
「そうか。俺は前田利家。慶次の叔父だ。二人共、慶次と仲良くしてやってくれな」
「はい!俺、真田幸村って言います!こちらこそよろしくお願いします!」
幸村が礼儀正しく頭を下げた。顔を上げた時、利家の後ろに佇む政宗の姿に気付き、目を遣った。
刹那、政宗と幸村の視線が交差する。政宗はまるで時間が止まったかのようにその場に立ち尽くした。どこか懐かしいような幸村の顔が目に映る。その名を呼びたいが、何故だか胸が詰まって声が出ない。政宗は思わず息を詰めた。
幸村は、戸惑ったような表情を見せ、政宗に向って軽く会釈したが、幸村もまた、政宗から目を離せずに立ち竦んで居た。二人は視線を交わしたまま、そのまま暫しの時が過ぎた。
「どしたの?幸ちゃん、棒立ちになっちゃって」
佐助が小首を傾げながら、幸村に声を掛けた。その声を聞いて、政宗も幸村もはっと我に返り、互いに視線を逸らす。政宗はついと顔を横に向け、足早にその場から立ち去った。
「おい、伊達!…全く、話の途中で逃げやがって」
利家が不満気に鼻を鳴らす。慶次が政宗の後姿を見送りながら言った。
「伊達…って、もしかして、あの人が…噂の伊達政宗かい?」
「そうだ。頭はいいんだが、どうも斑気な奴でな。真面目に授業に出てくれりゃ問題ないんだがなぁ」
「伊達…まさ…むね」
その名を聞いて、幸村が胸に手を当てる。何かひどく胸の奥がざわめく、とでも言うように。そんな幸村の様子を、佐助が不思議そうに見つめていた。
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政宗は下駄箱で靴を履き変え、校庭に出た。一瞬、ざあ、と強い風が吹いて、政宗の髪を揺らしてゆく。政宗は軽く髪を掻き上げ、天を仰いで小さく息を吐いた。
「真田…幸村」
夢の中でいつも朧げだった誰かの顔、ずっと探していた相手の顔が、幸村に重なる。思いがけぬ邂逅。政宗は遠い記憶を探るようにそっと目を閉じた。瞼の裏に幸村の顔が見え、胸の奥がじわりと温かくなったような気がした。そうだ、遠い昔にも確かにこんな気持ちになった事がある、と思いながら、政宗はゆっくりと目を開けた。
俺の探していたのはアイツなのか、確かめたい、どうしても。
政宗はもう一度校舎の方を振り返り、そして校門の方へと歩きだした。校庭に立ち並ぶ桜の木は、淡いピンク色に染まった蕾を膨らませ、咲き誇る準備をしている。政宗は足を止め、小十郎の言葉を思い出し、小さく反芻してみた。
「冬来りなば春遠からじ…明けぬ夜など無い、か」
確かに、長く厭わしかった冬も終わりを見せ、すぐ目の前まで春が来ている。ふと、今宵からはもうあの夢は見ないような、そんな気がした。闇を掃う眩しい光が見えたような気がして、政宗は軽く目を眇めて微笑した。
<To be continued...>
幸村編に続く…かな? ※3/7現在まだ書いていません(汗
月寒江清