F-01. Memoire

「小十郎?どこだ?」

政宗は左目を大きく見開いて辺りを見回した。だが、その視界の中に、今まで傍に付いていた筈の小十郎の姿は入ってこない。

「小十郎?…小十郎ー!」

親子連れなどで賑わう休日のデパートの中、政宗は従者の姿を求めて歩き出した。人々のざわめきの間を擦り抜け、きょろきょろと周りを見渡し、一生懸命記憶を辿りながら、先程通ってきた道筋を逆に戻ってみた。しかしどこにも小十郎の姿は見当たらない。

「こじゅ…あっ!」

余所見をしながら歩いていた政宗は、目の前に居た女性に勢いよくぶつかって蹌踉け、そのままぺたりと後ろに尻餅を付いた。

「あ…坊や、大丈夫?」

女性は屈み込み、心配そうに政宗の顔を覗いた。政宗は内心の動揺を気取られないよう、口をへの字に結んで、きっぱりと言い放った。

「へいきだ!」
「ごめんなさいね、私も余所見をしていたから…。それにしても、坊や、一人なの?お父さんかお母さんは一緒じゃないの?」

女性は政宗に手を差し伸べながら訊ねてきた。政宗はその手に掴まって立ち上がり、小さく首を振るった。

「そんなの、いない!」
「え?…でも一人で来た訳じゃないわよね?坊や、もしかして迷子なの?」
「俺は、まいごなんかじゃない!」

政宗は女性の手を振り払い、くるりと背を向けてそこから走り去った。背後から女性の呼ぶ声が聞こえてきたが、聞こえない振りをしてそのまま走り続け、目の前に見えたエスカレーターに飛び乗った。

「…まいごなんかじゃない…!」

幼いながらも、伊達家の次期当主として育てられてきた政宗の矜持はとても高い。他人に弱みを見せる事を良しとはせず、精一杯虚勢を張ってはみたが、初めて来たデパートで小十郎とはぐれてしまい、内心は心細さが押し寄せてきている。政宗は小さく、すん、と鼻をすすった。

「こじゅう…ろう…」

エスカレーターを降り、政宗は当て処もなくとぼとぼと歩き出した。もしかしたらこのまま小十郎とは会えないかもしれない、そうしたらもう家には帰れないかもしれない、などと悪い考えばかりが頭を過ぎる。左目に浮かんでくる涙を必死に堪えながら歩く政宗の耳に、大きな泣き声が聞こえてきた。

「う…うわあああーーーーーん、わあああーーーん…」

政宗は眉を顰め、顔を上げて、声の主の方に目を遣った。真っ赤なTシャツに膝丈のハーフパンツ、年の頃は政宗よりも二つ三つ下と思われる幼い少年が、Tシャツに負けぬくらい顔を赤く染めて、大粒の涙をぼろぼろと零している。

政宗は小さく溜息を吐き、少年の傍へと歩み寄った。

「おい、おまえ」

少年は泣くのを止め、真っ赤に泣き腫らした目で政宗を見た。その瞳には政宗と同様、不安の色がありありと宿っている。政宗はすぐに、少年の境遇が自分と同じである事を察した。

「おまえ、まいごなんだろ?」

政宗にそう言われ、少年は顔をくしゃりと歪め、再び、ヒックヒックとしゃくり上げた。泣きたいのはこっちだぜ、と、政宗は小さく舌打ちし、険しい表情で叫んだ。

「なくな!男だろ!」
「う…ふぇえ…」

少年は唇を噛み締め、右手で涙を拭った。政宗はふと、少年の左手にしっかりと、赤い風船と青い風船が握りしめられている事に気が付いた。

「おまえ、名前は?」
「う…、ゆ、幸村…」
「だれと来たんだ?」
「…た、たけだせんせいと…さすけ…」
「はぐれたんだな?」

その言葉を聞き、幸村は再び、瞳を潤ませた。政宗は仕方なく、ポケットの中から藍染めのハンカチを取り出し、幸村に手渡した。

「これ使え!」

幸村はおずおずとハンカチを受け取り、顔に押し当てて溢れ出る涙を拭いた。そして大きく深呼吸をし、政宗に向かってぺこりと頭を下げた。

「ありがとう、おにいちゃん」

小さいながらも礼儀正しく、良く躾けられている様が伺える。政宗はふん、と鼻を鳴らした。

「しかたねぇな、俺がさがしてやるよ、おまえといっしょに来たヤツら」
「…ほんとに?」

幸村の顔がぱっと明るくなった。まだ少し腫れぼったい大きな目を見開き、期待を込めた顔で政宗を見詰めた。政宗は、自分も迷子だという事は言わず、ちょっと照れ臭そうな顔で鼻の頭を軽く掻き、幸村に向かって手を差し伸べた。

「ほら、いくぜ」
「…うん!」

幸村は小さく頷き、政宗の手を握った。政宗よりも熱い幸村の体温が伝わってきて、不安で一杯だった政宗の心の中が仄かに暖かくなった。幸村の方も、政宗と手を繋いで安心したのか、微かに笑顔を見せた。

「おまえ、いくつだ?」
「六さい!」

政宗より二歳年下。だが年齢よりも遙かに幼く見える。政宗が年よりも若干大人びているというのもあるだろうが、幸村の顔はとてもあどけない。心の中がそのまま表情に出る素直さを、政宗は少々羨ましく感じた。

ふと気付くと、どこからともなく美味しそうな匂いが漂ってくる。と同時に、幸村のお腹からぐう、と威勢のいい音が鳴り響いた。

「はら、へってんのか?」
「……………うん」

幸村が頷くのを見て、政宗はポケットの中を探った。小十郎が持たせてくれたがま口を取り出して、ぱちんと開けると、五百円玉が一つ入っていた。政宗はそれを持って、匂いのしてくる店の前に立った。

「おまえ、どれがいい?」
「…え、でも、おかねもってない…」
「俺がかってやる!どれがいいのか言え!」
「…クリームのやつ…」

政宗は背伸びをし、店員に五百円玉を差し出して言った。

「たいやき二つ。一つはカスタード、一つはチーズだ」

店員は気の良さそうな年配の女性だった。政宗からお金を受け取るとにっこり笑い、カスタードの鯛焼きを幸村に、チーズのを政宗に手渡した。

「お兄ちゃん?偉いわね、弟の面倒を見てあげて。これ、よかったら、一緒に飲んでね」

店員は政宗に紙コップに入ったメロンソーダを差し出した。政宗はそれを受け取り、頭を下げた。

「…ありがとう」

横を向くと、幸村は既に大きな口を開けて、鯛焼きにかぶりつこうとしている。政宗は眉を寄せ、幸村の頭を軽く小突いた。

「おまえもおれいを言えよ!」

幸村は頭に手をやり、ちょっと顔を顰めたが、すぐに満面の笑みを浮かべ、店員に向かって手を振った。

「ありがとーございます!」

店員も笑顔を返し、二人に向かって手を振った。政宗は幸村を連れて、エスカレーターの脇に置かれたベンチに腰を掛けた。幸村は足をぶらぶらさせながら、嬉しそうに鯛焼きを頬張った。

「おいしい!」
「…Ha、よかったな」

政宗は思わず、くすりと笑った。先程までわんわん泣いていたというのに無邪気なものだ。政宗は黙って、隣に座る幸村の、林檎のような赤い頬を見詰めていたが、俄に胸の奥がきゅっと痛くなるような気持ちが押し寄せてきた。

(なんだ…これ…)

懐かしいような、切ないような感情。だがしかし、幼い政宗はその感情を言い表す術を持ち合わせてはいなかった。不可思議な気持ちに支配され、政宗は大いに戸惑って目を伏せた。

「おにいちゃん?どうしたの?」

ふと顔を上げると、幸村が小首を傾げ、心配そうな表情で政宗の顔を覗き込んでいる。

「なんでもねぇ…」

政宗が軽く微笑んでみせると、幸村は安心したように顔を輝かせた。本当に、幸村の表情はころころと良く変わる。

「おにいちゃん、これ、のみなよ!おいしいよ!」

幸村がメロンソーダを政宗に差し出す。政宗は子供には珍しく、甘い炭酸飲料が苦手だった。少し躊躇したが、幸村の顔を曇らせたくないと思い、小さく首を縦に振ってそれを受け取り、口に運んだ。

(う…あまい…)

「おいしいでしょ?」

幸村が屈託の無い笑顔で訊いてくる。政宗は軽く咳払いをし、笑顔を作ってみせた。

「Ah、うまいな」
「…よかったね!」

幸村がはしゃいだように足をぱたぱたと動かした。背中で一房の長い髪がゆらゆら揺れた。政宗は思わず、幸村の頭に手を置いて、髪をくしゃっと撫でた。幸村はさも嬉しそうに、きゃっきゃっと笑い声を立てた。太陽のような幸村の笑顔につられ、政宗も自ずと口許を綻ばせていた。その時、二人の目の前を通り過ぎた人物を目にして、幸村の表情が一変した。

「あっ!さすけ!?」

幸村は目を見開き、慌ててベンチから飛び降りた。政宗が幸村の視線の先を追うと、迷彩柄のTシャツを着た青年の後ろ姿があった。

「さすけーーーーー!!」

幸村は青年の後を追いかけてぱたぱたと走り出し、嬉しそうに青年の足にしがみ付いた。だが、立ち止まって振り返った青年の顔を見た瞬間、くしゃりと顔を歪めてその手を離した。

「さ…すけじゃ…ない…」
「ん?どうしたの、ボク?…誰かと間違えちゃったのかな?」

青年は少し困ったような顔で笑いかけ、幸村の頭を撫でた。そして、幸村の背後に立つ政宗の姿を認め、優しく声をかけた。

「ほら、お兄ちゃんが待ってるよ」

青年は幸村に向かって手を振り、幸村の傍からを立ち去って行った。後に残された幸村は、目に一杯涙を溜めて、ぎゅっと拳を握りしめ、その場に仁王立ちしていた。

「おい、幸村…」

政宗が幸村の肩に手を置くと、幸村はくるりと振り返り、涙を湛えた瞳で政宗の顔を見上げた。そして、大きく大きく息を吸い込むと、堰を切ったように激しく泣き出した。

「う、わああああああーーーーーーーーーーん、さ、さすけええーーーー!!!」

身形の似た者を見た事で、一緒に来た家族の事と、それとはぐれた寂しさを思い出してしまった幸村は、腹の底から力一杯泣き声を上げた。政宗は大いに困惑し、為す術無く幸村が泣く姿を見詰めていたが、やがてきゅっと唇を噛み、大きく両手を広げて幸村の身体を包み込んだ。

「なくな!」

幸村は泣くのを止め、政宗の腕の中で、吃驚したようにぱちぱちと目を瞬かせた。政宗は、幸村を抱き締めた腕に力を込めた。

「俺が…いるだろ」

政宗の心の中を、またも政宗が今まで知らなかった感情が支配していた。幸村が泣いていると、なんだか自分も悲しくて泣きたくなってくる、そして、幸村が自分以外の者を想って泣いているという事が政宗にとっては無性に苛立たしかった。もうあと数年もすれば、これが嫉妬だという事に気付いただろうが、幼い政宗には、ただ胸の中がもやもやと苦しいようにしか感じられず、その感情を持て余していた。

「おにいちゃん、いたい…」

気付けば政宗は、加減する事も忘れ、幸村の身体をきつく抱き締めていた。政宗は慌てて腕の力を緩めた。幸村が腕の中でもじもじと身を捩り、政宗を見上げた。

「もう、なかない…」

そう言うと、幸村は政宗の肩口に額をこつんと当てた。政宗は胸の奥が熱くなるような気持ちで、そっと幸村の髪に顔を埋めた。幸村の髪から、ふわりとお日様のような香りがし、政宗の鼻先を擽った。

(あったかい…)

幸村の身の熱、髪の香り、何もかも全てがどこか懐かしく、そして愛おしい。この温もりを離したくない、と、政宗がそっと左目を伏せた、その刹那、

「幸ちゃんー!!」

政宗の肩越しに、誰かが幸村を呼ぶ声が聞こえてきた。その声を聞きつけ、幸村はぱっと顔を上げ、政宗から身を離して振り返った。

「あ、さすけ!」

迷彩柄のTシャツを着た、年若い青年の姿が目に入る。幸村はその顔を確認すると、今度こそとばかりに嬉しそうに青年に飛びついた。

「さすけーーー!!」
「んもう、急に居なくならないでよねー。俺様も武田先生も、すっごく心配したんだからね!」

佐助は軽く窘めるように言った後、幸村の頭をくしゃくしゃと撫でた。幸村は申し訳なさそうに視線を落とした。

「ごめんなさい…」
「まぁ、無事で何より、ってね。さあ、帰ろうか。お腹、すいたでしょ?」
「うん…」

幸村は頷き、だが少し気がかりな様子で政宗の方を振り返った。

「だあれ?お友達?」

政宗の姿を視界に入れた佐助が、幸村に訊ねた。幸村はぱたぱたと政宗の元へ走って行き、目の前で立ち止まった。

「おにいちゃん…」
「…かえれよ。いっしょに来たヤツ、みつかったんだろ」

政宗は少し剥れたような表情で言い放った。つい先程まで優しかった政宗が突然不機嫌になった理由が分からず、幸村は戸惑いの表情を見せて小首を傾げていたが、徐に口を開いた。

「おにいちゃん、これ、あげる」

幸村は、ずっと大事そうに持っていた二つの風船のうち、赤い方の風船を政宗に向かって差し出した。

「…」

政宗は暫し黙って幸村の顔を見詰めていたが、やがてそれを受け取った。

「…Thank you」

政宗が表情を和らげたのを見、幸村は安心したように、にこりと笑った。幸村の後ろから佐助が覗き込んできて、政宗に向かって声を掛けた。

「ずっと幸ちゃんと一緒に居てくれたの?ありがとねー。…でも君は?家族の人は一緒じゃないの?」

政宗は一瞬、言葉に詰まったが、咄嗟に思いついた事を口にした。

「俺は…まちあわせしてるから…」
「あ、お家の人、待ってるんだね。なら良かったー」

佐助は安心したように微笑み、政宗の頭をくしゃりと撫でた。子供扱いされた事が気に入らず、政宗は少し顔を顰めたが、佐助はそれには気付かずに、ゆっくりと立ち上がり、幸村の手を握った。

「さ、じゃあお兄ちゃんにありがとうとさよなら言って?お家に帰ってゴハンにしよう、ね」

幸村は素直に頷き、政宗にぺこりと頭を下げた。

「たいやき、ごちそうさまでした…ありがとう」
「Ah、いいって、気にするな」

佐助に手を引かれ、幸村は政宗に背を向けてゆっくりと歩き出した。が、すぐに立ち止まり、再び振り返って大きな声で叫んだ。

「おにいちゃん、なまえ、なんていうの?」

政宗の頭上で赤い風船がゆらゆら揺れた。それと幸村の顔を見比べながら、政宗はゆっくりと口を動かし、呟くように言った。

「…政宗」
「まさむね…」

名前を反芻して幸村は笑みを零し、政宗に向けてひらひらと小さな掌を振った。

「政宗おにいちゃん、…またね!」

幸村の姿がゆっくりと遠ざかってゆく。その後ろ姿を見送りながら、政宗は再び、胸が締め付けられるような切なさにかられていた。完全に幸村達が視界から消えた時、政宗の目頭がじわりと熱くなった。

…さびしくなんか、ない。なくもんか、なくもんか。

政宗は歯を食いしばったが、その小さな両肩が小刻みに震えた。胸中に押し寄せてくる遣る瀬無い想いを振り払おうと、大きく首を左右に振るった、その時。

「政宗様ッ!!」

小十郎が息を切らしながら走り寄ってきて、青ざめた顔で政宗の目の前に膝を付いた。

「こじゅう…ろう…」
「ああ良かった…!急にお姿が見えなくなったので…心配致しましたぞ…!」

政宗の無事を確認し、小十郎は深く大きな安堵の溜息を吐いた。そして政宗の手を取り、強く握った。

「さ、もうはぐれませぬよう、しっかりと小十郎に掴まっていて下さい。帰りましょう。皆、待っております」
「…ああ」

小十郎は政宗の手をしっかりと握ったまま、ゆっくりと立ち上がった。政宗は小十郎と一緒に歩き出し、屋上の駐車場に向かう為、エスカレーターに乗った。一瞬、名残惜しそうに後ろを振り返ってみたが、そこには見知らぬ人々が行き交うばかりで、政宗の求める者の姿は見受けられない。

「どうかなされましたか?」
「…なんでも、ない」
「おや、その風船は?」
「…もらった」

小十郎は顎に手を遣りながら、意外そうに政宗の顔を見た。

「…珍しいですな。政宗様がそのような玩具にご興味をお持ちになるとは」
「…」

政宗は黙って風船を見詰めた。幸村が着ていたTシャツのような、幸村の熱い頬のような鮮やかな赤。政宗はふと、先程まで自分の腕の中にあった幸村の身の熱を思い出した。

屋上に着いた政宗と小十郎は扉を開けて外に出た。その瞬間、俄に強い風が吹き抜けていった。政宗の小さな身体は風に煽られてよろりと蹌踉めいた。

「政宗様、大丈夫ですか?」
「…目になにか…」

砂埃でも入ったのであろう、政宗は左目を眇め、咄嗟に目に手を当てた。

「…あっ!」

小十郎が思わず声を上げた。政宗が握っていた風船の糸が手を離れ、ふわりと空に浮かび上がった。小十郎は慌ててそれを掴もうとしたが、風に攫われ、風船はあっという間に空高く舞い上がってしまった。

「あ…」

政宗は天を仰いで、小さく消えてゆく赤い風船を呆然と見詰めた。その様子が、遠ざかってゆく幸村の姿と重なった。

…さびしくなんか、ない。なくもんか、なくもんか。…なくもんか…

「…政宗様!?」

小十郎は大層驚いて政宗の顔を見た。政宗の左目から、ぼろぼろと大粒の涙が溢れ出て、頬を伝ってぽたぽたと地面を塗らしている。

「ま、政宗様、如何なされましたか!?」

小十郎は酷く狼狽して、小さな主の肩を揺さぶった。それもその筈、矜持の高い政宗が人前で涙を見せるなど、政宗が物心付いた頃から今まで、終ぞ有り得なかった事だ。病気で右目を失った時も、それが元で母に疎まれ、愛情を与えられなくなった時も、政宗は黙って耐えていた。その政宗が今、人目も憚らずに、しゃくり上げて泣いている。そんな政宗を前に、流石の小十郎も為す術なく、ただおろおろするばかりであった。

「…風船ならば、いくらでも、この小十郎が手に入れて差し上げまする故、どうかそのようにお嘆きにならぬよう…」

小十郎が宥めるように政宗に言葉を掛けたが、政宗は大きく首を横に振った。政宗が欲しいもの、それは風船では無いのだ。

(幸村………ゆきむら…)

政宗は心の中で、何度も何度も幸村の名前を呼んだ。別れ際に幸村が言った、またね、という言葉が、切なく虚しく繰り返し蘇る。いつかまた、巡り会える日が来るのだろうか。限りなく儚い希望に、縋れるならば縋りたい、もう一度幸村の顔が見たいと、政宗は止め処ない涙を拭う事もせずに、ただひたすら泣き続けていた。



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「Ah、かったりィ…」

今日から高校生活最後の一年が始まるという仄暖かな春の日。政宗は校門の前で一瞬足を止め、制服のシャツの襟をつまみ、反対の手でネクタイの結び目を掴んだ。堅苦しいのは嫌いなのでネクタイなぞ外してしまいたいが、始業式くらいはきちんとされるように、と小十郎に言い含められたので、政宗は仕方なく、ネクタイのゆがみを直して襟を正した。そしてゆっくりと校門をくぐった。

校庭には桜の木が並んで植えられており、どの木もみな一様に美しい花を咲かせている。漂ってくる甘やかな香りを感じ、政宗はふと足を止めた。

その時、一人の男子生徒が政宗の横を通り過ぎて行った。擦り抜けざまに、男子生徒のブレザーのポケットから定期入れがぱたりと落ちた。男子生徒はそれに気付かずに歩き去ろうとしている。政宗は定期入れを拾い上げ、男子生徒の後を追って呼びかけた。

「Hey、アンタ、落としたぜ」

声を掛けられ、男子生徒は立ち止まり、政宗の方に向かってくるりと振り返った。首筋から伸びる一筋の長い髪がふわりと風に揺れた。

「あ、どうもありがとうございます!」

明るく屈託のない笑顔が政宗に向けられた。その顔を見た時、政宗の胸の奥に得も言われぬ懐かしさがこみあげ、俄に心臓の鼓動が高鳴った。あの幼い日に出会った、忘れ得ぬ顔、優しい温もり。政宗は自分の記憶を確かなものにするように、手の中にある定期入れの名前を見た。

「真田…幸村…」

政宗は息を詰めた。あの日から一日たりとも忘れた事の無い、幸村の明るい笑顔が目の前にある。時が経ち、面差しは少し大人びてはいるが、あの日の面影が色濃く残っている。政宗は込み上げる喜びを胸に、小さく息を吐いた。

「あなたは…」

政宗の顔を見詰めた幸村の目に軽い驚きと、深い喜びの色が宿った。

「政宗…おにいちゃん…」
「…おにいちゃん、は、よせよ…」

政宗は少し照れ臭そうな表情をし、軽く鼻の頭を擦った。そんな政宗の様子を眺めて、幸村は小さくくすりと笑った。

桜の花びらがひらひらと風に舞い踊る中、二人は暫し視線を合わせて静かに笑みを交わし、やがて、互いを懐かしむように、再び巡り会えたことを喜び合うように、そっと身を寄せ合った。




2010/03/26 up

他の話と違い、佐助が少々年上設定になっています。