F-02. 眩輝 〜glare

山のように堆く積み上げられた書類と格闘しながら、幸村は小さく一つ溜息を吐いた。左手首を持ち上げて、腕時計に目を遣ると、時刻は既に十一時を回っていた。社内には幸村以外、誰も残っておらず、広いフロアはがらんとして、昼間とは全く違った様相を見せている。節電のためにとフロアの電気も最小限に落としているので、辺りは真っ暗で、幸村のデスクの上のパソコンのモニターだけが、ぼんやりと淡い光を放っていた。

「終電…間に合いそうにないな…」

ブラインドの隙間から見えるオフィス街の灯りを眺めながらもう一つ溜息を漏らし、幸村は、今日は徹夜だな、と覚悟を決めた。少し休憩を入れようと、ネクタイを軽く緩め、椅子から腰を浮かせて大きく伸びをする。そして携帯を取り出して、自宅の番号を打ち込んだ。数回のコールの後、耳慣れた声が幸村の耳に聞こえてきた。

「もしもしー?旦那ー?どうしたの今日は。随分と遅いじゃない?」
「ああ、佐助…。連絡が遅くなってすまないが、仕事が終わらなくて、今日は帰れそうにないんだ…」

声を落として申し訳なさそうに言う幸村に対し、佐助は気にしていないというように、いつもの軽い調子で言葉を返した。

「あー、そうなんだ。お仕事、大変そうだねぇ…まぁ、無理しないようにねー。それと、何でもいいから、お夜食はちゃんと食べてね?」

佐助の気遣いに、幸村はうん、と返事をし、通話を切った。ぱくんと携帯を閉じたとき、後ろからぽん、と肩に手が置かれた。

「Hey、こんな時間までお疲れさん」

耳許で低い声が響き、幸村は驚いて振り返った。そこに居たのは、夕方過ぎから外回りに出て、そのまま直帰した筈の政宗であった。

「あ、政宗先輩!?お、お疲れ様です…って、先輩こそどうしたんですか、こんな遅くに?」

政宗は手に提げたコンビニの袋を探って暖かい缶コーヒーを二本取り出し、一本を幸村に向かって差し出した。

「Ah、ちょっと様子を見に、な。アンタ、随分と沢山の仕事を振られてたみたいだったからな、一人じゃ片付かないんじゃねぇかと思って、な」
「…えっ!?その為にわざわざ社に戻ってきたんですか?…お気遣いさせてしまって、すみません…」

手渡された缶コーヒーを受け取りながら、幸村は恐縮し、頭を下げた。政宗は軽く笑い、手に持った缶コーヒーの蓋を開け、ゆっくりと口元に運んだ。

「気にすンな。部下の面倒を見るのも、チームリーダーの仕事だからな」

政宗から受け取った缶コーヒーの温もりを掌の中に感じ、幸村はふっと微笑んだ。半年前、幸村が入社した時からずっと、政宗が幸村の所属するチームのリーダーとして、色々と面倒を見てくれていた。自分も仕事を山ほど抱えて忙しいであろう筈なのに、社会人に成り立てで右も左も分からないような状態の幸村に、根気よく仕事のノウハウや対人関係の遣り取り、一般常識などを教えてくれたのは政宗である。まだ半年の付き合いだが、上司からの人望も厚く、人一倍仕事をこなす政宗の事を、幸村は信頼し、また、とても尊敬していた。

「あと、どれくらい残ってるんだ?」

政宗に問われ、幸村は少しばつの悪そうな顔をして、おずおずとデスクの上の書類に目を遣った。政宗は黙って幸村の視線を追いかけると、肩を竦めてふう、と息を吐いた。

「仕方ねぇな。二人でやれば、今晩中に終わるだろ」
「え…そんな、俺、一人でやりますから、政宗先輩は上がって下さい!…明日も早いんですし…」

これ以上政宗に気を遣わせては悪いと、幸村は焦り、ふるふると首を横に振った。

「遠慮すんな。一人じゃできねぇって思ったら、誰かに振り分けるのも仕事の内だぜ」

言うが早いか、政宗はスーツの上着を脱いでシャツの袖を捲り上げ、幸村の隣の席に腰を掛けた。そしてデスクの上の書類の束を手に取り、パソコンを起動させた。書類に目を通す政宗に向かって幸村は深く頭を下げ、自分も袖捲りをし、表情を引き締めて席に着くと、再び、山積みになった書類と格闘し始めた。




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「…Ha、何とか片付いたな。やっぱり二人でやった方が早かったろ?」

政宗は椅子の背もたれに深く寄りかかり、大きくのけぞった。そして両手を上に伸ばしながら軽く首を解し、幸村に向かって笑みを見せた。

「はい!ありがとうございました。…っていうか殆ど、政宗先輩にやらせてしまって…本当にすみません!」

幸村は己の不甲斐なさを恥じるように目を伏せた。残っていた仕事のうち、四分の三ほどは政宗が片付けたのだ。普段から政宗の能力の高さは周りからも一目置かれているが、幸村は改めて政宗の仕事ぶりに目を瞠った。

「No problemだ。…ちょっと待ってな」

政宗はゆっくりと椅子から立ち上がり、給湯室の方へすっと姿を消したが、すぐに戻ってきて、幸村に冷えた缶ビールを手渡した。

「Beerしかねぇけど、まァ、打ち上げといこうぜ」
「は、はい」

二人は缶ビールのプルタブを引き上げ、軽く缶を打ち合わせた。アルミ缶が触れ合う鈍い音が響く。政宗はビールを喉に流し込み、満足げに息を吐いた。幸村はそんな政宗の姿を見ながら、少し躊躇ったような表情を浮かべていた。

「ん?どうした、呑まねぇのか?」
「い、いえ、いただきます!」

威勢よく返事はしたものの、実は幸村は酒が苦手で、かなりの下戸である。ほんの僅かのアルコールでもすぐに酔いが回ってしまうのだ。それに元来、甘味を好む幸村にとっては、苦いビールだの、辛い日本酒だのは一体どこが美味しいのか、さっぱり分からない。幸村は缶ビールを手に持ったまましばし硬直していたが、折角政宗が持ってきてくれたのに口を付けないというのも失礼だ、と思い、ごくりと唾を飲み込んで、覚悟を決めたようにビールを一口、口に含んだ。

(…苦い…)

思わず顔を顰めた幸村を見て、政宗は僅かに椅子から身を乗り出し、左目を見開いた。

「アンタ、もしかして…酒が苦手なのか?」
「え、いや、その…」

幸村はしどろもどろになり、何とか取り繕おうと言葉を探した。だがそれより先に、政宗がすっと手を伸ばし、幸村の手から缶ビールを取り上げた。

「無理して呑むな。ただでさえ疲れてんだ、酔いが回るぜ」
「いえ、大丈夫です、俺…!」

幸村は慌てて、政宗の手から缶ビールを取り戻そうとした。その瞬間、幸村の手と政宗の手が交差し、はずみでビールがぱしゃ、と溢れて政宗の白いワイシャツの胸元を濡らした。

「あッ…す、すみません!!い、今、拭きますから…」

幸村は慌ててポケットからハンカチを取り出し、政宗のシャツを拭った。

「すみません政宗先輩…ああ、シミになったらどうしよう…」

政宗は、眼下の幸村の顔をゆっくりと見下ろした。おろおろしながらも一心不乱に政宗のシャツを拭う幸村の表情は真剣そのものである。馬鹿がつくほど真面目で熱血漢な幸村らしいと、政宗は思わず、声を立てずにくっと笑いを零した。政宗の鼻先で柔らかい幸村の髪がふわりふわりと揺れる。それを視線で追いかけながら政宗は、コイツ、意外と睫毛が長いんだな、などとぼんやり考えていた。

「本当にすみません…!俺、クリーニング代出しますから…」

そう言って幸村が勢いよく顔を上げた。と、思いがけず二人の顔が接近して、政宗も幸村も一瞬、驚きの色を浮かべた。

「うわっ!!」

幸村は慌てて後ろに飛び退いた。その拍子に、自分が座っていた椅子に躓いて蹌踉めいて、そのまま背中から崩れ落ちた。

「危ねぇ!」

政宗は咄嗟に手を伸ばし、幸村の身体を抱きかかえて引き寄せた。幸村の身体がぐらりと揺れて、政宗の腕の中にどさりともたれかかった。

「…ったく、何やってんだ、このドジ」
「す…すみません」
「アンタ、さっきから、すみませんばっかりだな」

政宗はそう言うと、鼻先で軽く笑った。腕の中に熱を感じてふと見れば、幸村の耳朶までが赤く染まっている。

「…真っ赤だぜ」

政宗は幸村の耳朶を指で軽く挟み、そっと引っ張った。幸村は更に頬をかあっと赤く染め、身体を強張らせた。幸村の全身の緊張がありありと伝わってくる。政宗は可笑しくなり、からかうようにぺろ、と舌先で幸村の耳朶を舐めた。

「わぁっ!!」

腕の中で幸村の身体がびくん、と跳ねた。幸村は政宗から逃れるように身を捩ったが、政宗は腕に力を入れ、幸村を羽交い締めにした。

「ま、政宗先輩、は、離して下さい!」
「No…嫌だね」

政宗はにやりと口許を上げると、親指と人差し指で幸村の顎を掴んでそのまま持ち上げた。政宗の左目に幸村の困惑したような表情が映し出される。紅潮した幸村の頬を手の甲で軽く撫でてやると、幸村は首を竦めてぱちぱちと目を瞬いた。

「な、何するんです…か…」

言い終わらぬうちに、政宗は幸村の言葉を遮るように、やおら唇を重ねた。突然の出来事に幸村は一瞬息を止め、ひどく狼狽えて、政宗の肩を掴んで引き離そうとしたが、強い力でその身を捉えられており、思うようにならない。

「ふ…んん…っ…」

幸村の唇から苦しげに喘ぐ声が漏れる。幸村の抵抗もお構いなしに、政宗はゆっくりと唇をずらし、更に深く口付けた。幸村は固く目を瞑って歯を食いしばり、何とか顔を背けようと、必死に抗った。そんな様子を見て政宗はようやく唇を離し、やれやれというように小さく苦笑した。

「や、止めて下さい!一体、何の冗談ですか!?」

うっすらと開いた幸村の瞳は火照った熱に潤んでいたが、それでも咎めるようなきつい視線を政宗に向けた。政宗はさも楽しげにその視線を受け止め、にやりと笑った。

「そんなに怒るなよ…KISSくらい、どうって事ねぇだろ?」
「あ、あります…!お、俺は…!」

頬を真っ赤に染め上げて、息を荒げる幸村を見、政宗はその表情に少々の驚きの色を宿して訊いた。

「…まさかアンタ、KISSもした事無い…ってんじゃねぇだろな?」

幸村は目をぎゅっと閉じ、額にじわりと汗を滲ませながら、首をふるふると横に強く振るった。

「あ、ありません!そんな…破廉恥な事…!!」

今時の若者が口にする言葉とは思えない、時代錯誤な台詞を聞いて、政宗は大いに吃驚し、しばし呆然と幸村の顔を見つめた。まさか本当に、と訝しく思ったが、実直で純粋な幸村ならば充分に有り得る事だ。政宗は軽く顎を撫で、僅かに何か考えたような素振りを見せたが、やがて軽く口角を上げた。

「成る程…じゃあ勿論、それ以上の経験もねぇ、って訳だ…」

感心したように言い放つと、政宗は幸村の肩を掴み、そのまま荒々しくデスクに押し倒して組み伏せた。

「なっ、何を…!」

政宗の手を払いのけようと、幸村は必死で暴れたが、強い力で押さえ込まれているので身動きが取れない。夢中で振り回した手が積み上げられた書類に当たり、ばさばさと音を立てて床に崩れ落ちていった。舞い散る書類の向こうに、不敵な笑みを浮かべる政宗の顔が見える。普段の政宗からは想像もつかない、艶めいた表情。幸村の戸惑いを他所に、政宗は幸村の喉元についと手を伸ばし、緩んでいたネクタイに指をかけてそのままするりと解いた。

「…!!」

幸村は政宗の顔をきっ、と睨み上げたが、政宗はお構いなしに、手慣れた様子で幸村の着ているワイシャツのボタンを上から順に外していき、ぐいと前を開いた。露わになった胸元に手を滑り込ませ、柔らかな幸村の肌をするりと撫でてやると、俄に幸村の身体が強張った。

「止して下さい!」

幸村は無我夢中で腕を振り上げた。その瞬間、幸村の手が政宗の左頬を掠め、がりっと鈍い音がした。

「ッ痛ぅ…」

幸村ははたと動きを止め、政宗の顔を見た。政宗の頬に一筋の赤い線が走り、うっすらと血が滲んでいる。政宗はそれを手の甲で拭い、ちらりと目を遣ったが、すぐに、戸惑う幸村の顔に視線を戻した。

「やってくれるじゃねぇか…」

言い放つと、政宗は幸村の両の手を掴み、ぐいと頭上に持ち上げた。そして、先程解いた幸村のネクタイを手に取ると、それで幸村の両手首を縫い付けた。

「なッ…」

幸村は酷く驚いた声を上げたが、それも再び政宗の唇に吸い取られた。両手の自由が利かぬまま口を塞がれ、幸村は苦しげに顔を歪めた。

「う、うっ…」
「アンタがお行儀が悪ィのがいけないんだぜ…?ちっと我慢しな」

政宗は幸村の耳許で低く甘く囁き、ゆっくりとその身を幸村の上に重ねた。幸村は拒絶の意志を露わにし、激しく身を捩ったが、己よりも体躯の良い政宗にのし掛かられて、それを押しのける事が叶わない。幸村はぎり、と歯噛みして、如何にも悔しげな表情を露わにした。

「…ンな顔すんなよ。…逃げれば、追うぜ」

政宗は少し苦笑いしながら、幸村の腹の辺りを探った。かちゃりと金具の音がして、ベルトが外れて腰元が緩む感覚が伝わった。為す術もなく政宗にされるがままになっていた幸村は、ここで改めて焦りを感じ、せめてもの抵抗にと足をばたつかせたが、それも虚しい足掻きだった。政宗は目を細め、幸村の腰をぐいと持ち上げると、緩んだ服の隙間から手を差し入れて、幸村の下腹部を覆った。

「ぅ…あ…ッ!!」
「何だ…ちゃんと反応してンじゃねぇか」

政宗が満足げにくっと笑う。嫌だ嫌だと思う心とは裏腹に、敏感な部分を攻められた幸村の身体は政宗の意図する通りに昂ぶりを見せていた。幸村はかあっと顔が熱くなるのを感じ、恥ずかしさと情けなさで微かに目を潤ませた。固く奥歯を噛み締めた後、幸村は小さく唇を振るわせて、そこから掠れた声を絞り出した。

「どうして…こんな事を…」

耐えかねてついに幸村の眦からぽろりと一粒、涙が落ちた。政宗はそれを舌で掬い取り、そのまま唇を耳許に寄せ、幸村の問いに答えるように囁いた。

「…俺から、可愛い部下への残業手当だぜ」

下腹部を探られて、望まずとも荒くなった幸村の吐息を、政宗の唇が容赦なく奪う。薄く消え入りそうな意識をどうにか繋ぎ止めようと必死になり、幸村は無我夢中で政宗の唇に強く噛み付いていた。

「…上等」

政宗は左目を眇めてにやりと笑い、湧き上がる情動に身を任せ、幸村の身の内に己の熱情を注ぎ込んだ。




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耳元で携帯のアラームが鳴っている。幸村は薄く目を開き、手探りで携帯を掴み、アラームを止めた。ゆっくりと顔を上げると、ブラインドの間から柔らかい日の光が差し込んでいる。

「…朝…」

起き上がろうとして、ふと見ると、身体の上にスーツの上着が掛けられている。幸村はそれを手に取ってみた。幸村の物ではない、とても上質な作りのジャケット。

「これは…政宗先輩の…」

幸村はソファの上にゆっくりと身を起こした。刹那、下腹部に走る鈍い痛みに思わず顔を顰めた。

「…痛ぅ…!」

一瞬、自分の身に何が起きたか分からずに、幸村はまだぼんやりと靄がかかったような頭の中から、懸命に記憶の糸を手繰り寄せた。

「…俺は…ゆうべ…」

政宗に強引に身体を奪われた事を思い出し、幸村はかっと顔を赤くした。俄に頭がはっきりし、昨夜の出来事が脳裏にまざまざと甦る。事が済んだ後、幸村は政宗の頬を平手で打ち、逃げるように休憩室へ駆け込んでソファに倒れ込み、そのまま意識を失ったのだった。

「…!」

幸村は眉を顰めて、己の身形を見下ろした。情事の後を物語るようにしどけなく乱れた着衣を慌てて整え、政宗のジャケットを腕に掛けてゆっくりとソファから立ち上がり、休憩室の扉を押した。幸村はそっとフロアを見渡し、人気が無い事を確認すると、足音を忍ばせて自分のデスクの方へ向かって歩いた。

「!」

幸村の席に、誰かが座っているのが目に入った。政宗だ。高い背もたれに深く身を預け、静かな寝息を立てている。幸村はおずおずと近寄り、隣の席に静かに腰を下ろした。

「…」

幸村は複雑な思いで、政宗の方にちらりと目を向けた。と同時に、無体な政宗の仕打ちが思い出され、身が小さくぶる、と震えた。手首にはまだ、縛られた痕が薄赤く残されている。幸村は政宗のジャケットをぎゅ、と握りしめた。

「ん…」

政宗が微かな吐息を漏らし、僅かに顔を幸村の方に向けた。目を覚ましたのかと思い幸村はびくりと身を強張らせ、息を殺した。だが政宗の目覚める気配は無い。よく眠っているようだ。幸村はその寝顔に目を遣り、思わずどきりとした。

窓から差し込む朝日に照らされた、政宗の整った顔。それは男の幸村でも思わず見惚れてしまうような秀麗さだった。普段は前髪で右目を覆っている政宗だが、今はその前髪がさらりと落ちて、それが露わになっている。政宗の右目は視力が全く無いという話だが、それはもしも神様というものが本当に居て、人間を造ったのだとしたら、余りにも政宗の顔を端正に造りすぎたので、代償として右目の視力を奪ったのではないかと、幸村の頭にぼんやりとそんな考えが浮かんだ。

政宗の寝顔はとても穏やかで、昨夜の荒々しさを微塵も感じさせない。人の印象というものはこうまで変わるものか、と、幸村は小さくふっと息を吐いた。顎の周りにうっすらと無精髭が生えているのが目に入る。普段は見られぬ無防備な様子に、幸村の鼓動が更に早まった。

政宗が目を覚ましたら、昨夜の事を詰ってやろうと思っていた幸村の気は完全に削がれ、不可思議な感情が心の中を支配し始めていた。胸の奥が熱くなるような、今までに感じた事の無い気持ち。無理矢理、身体を蹂躙された事に対する怒りと、それを凌駕する切ないような想いがせめぎ合い、幸村は思わず胸に手を当て、きゅっと唇を噛んだ。

「まさ…むね…先輩」

そっと口の中で政宗の名前を呟く。と、それを聞きつけたかのように、政宗の左瞼がゆっくりと持ち上がった。

「…ん?…Ah、なんだ、もう起きてたのか」

幸村は驚いて咄嗟に椅子から立ち上がり、普段の習性で深く頭を下げた。

「おっ、おはようございます!」
「あァ、Good morning…」

政宗は軽く欠伸をし、ゆっくりと前のめりになって椅子から身を起こした。そして左腕を持ち上げ、ちらと腕時計に目を遣った。

「…もうすぐ、出勤時刻か。皆出社してくるな。アンタも顔くらい、洗っておけよ」

そう言うと政宗は椅子から立ち上がり、前髪を掻き上げながら洗面所へと向かって行った。幸村は返しそびれた政宗のジャケットを手にしたまま、政宗の後を追った。

洗面所から電動シェーバーの唸る音が聞こえてくる。幸村がそっと中を覗き込むと、政宗が顎に手を遣り、髭を剃っていた。幸村は暫しそこに立ち尽くし、その様子を眺めていた。

「ン?…どうした?」

幸村の気配に気付いた政宗が手を止めて振り返る。幸村は慌て、少しおたおたとしながら、手に持っていた上着を差し出した。

「あ、あの、これを…」
「Ah、なんだ、わざわざ持ってきたのか。Thank you」
「これ…掛けてくれたんですか…?」
「空調は切ってあったし、少し冷えてたからな。…あのまま眠ってたら風邪ひくだろ」

政宗は幸村の手から上着を受け取り、袖を通した。幸村の身を気遣う、部下思いの政宗らしい行動。だが、まるで昨夜、何事もなかったかのような、いつもと変わらぬ政宗の振る舞いが、逆に幸村の心を掻き乱し、幸村は思わず声を荒げた。

「ま、政宗先輩…!昨夜はどうして俺に…あんな…」

言葉の最後は掠れて聞こえなくなった。政宗は改めて幸村の方に向き直り、真摯な眼差しをその顔に注いだ。

「…嫌だったか?」

幸村は一瞬、ぐっと言葉に詰まった。入社した時からずっと面倒を見てくれて、尊敬していた相手からの、思わぬ乱暴な行為。それは幸村の心に激しい衝撃を与えた。だが、嫌だったか、と訊ねられ、何故かそれにはっきりと答える事ができない。混乱し口籠もる幸村の姿を見、政宗はついと一、二歩、幸村の方へと足を進めた。そしてすっと手を伸ばし、幸村の頬に軽く触れた。

「嫌だったか?」

政宗の口許に軽い笑みが浮かぶ。まるで幸村が嫌とは言わないと分かっているとでもいうように。幸村は怒りと恥じらいでかっと顔を赤くした。

「せ、先輩は…誰にでもあんな事をするんですか!?」

咄嗟に口を突いたのは、幸村自身にも思いもよらぬ言葉だった。これではまるで嫉妬しているようではないか、と、幸村は大いに焦り、眉尻を下げて唇を噛んだ。

幸村に問われて、政宗は一瞬大きく目を瞠ったが、すぐに、その言葉の意味するものを理解したように、深く自信に満ちた笑みを零した。そして、幸村の両手首をぐいと掴み、そのままその身体ごと、壁に押し当てた。

「なッ…!」

驚きの声を上げる幸村に、政宗はゆっくり口付けた。昨夜何度も受けた、政宗の口付け。政宗の熱く柔らかい唇の感触が再び伝わり、幸村は思わず切なげな吐息を漏らした。

「ん…」

幸村の唇を優しく舌で舐めた後、政宗はそっと唇を離し、幸村の耳元で、艶めいた声で囁いた。

「アンタだから…アンタだけにきまってんだろ、あんな事は」
「…!」

耳朶まで赤く染め上げた幸村からゆっくりと身を離し、ふっと笑いかけると、政宗はそのまま洗面所を出て行った。後に残された幸村は、未だ政宗の熱の残る唇に手を当て、ついとなぞった。心臓がばくばくと音を立て、ぎゅっと痛む。己自信にも説明する事のできない不可解な感情に捕われて、幸村は暫しその場に立ち竦んで動けなくなって居た。

「…あれっ!幸村?こんな所に居たのかい?姿が見えないから休みかと思ったよ」

明るい声が聞こえ、突然、同期の前田慶次がひょこっと顔を出して、幸村に声を掛けた。

「あ、お、おはよう慶次」
「腹具合でも悪いのかい?もう、朝礼は終わっちまったよ」
「…ええっ!?」

幸村が慌てて腕時計に目を遣ると、始業時間を十五分も過ぎている。幸村は至極動揺し、急いでフロアへと走り、自分の席に戻った。

「遅ぇぞ!幸村!」

隣の席から政宗が厳しい顔で怒鳴った。幸村は恐縮し、体が折れ曲がる程に深く頭を下げた。

「す、すみませんでした!!」
「…まァいい。それよりも、朝イチで急ぎの仕事が入った。すぐにコイツを片付けろ」

政宗は表情を変えずに幸村に書類の束を手渡した。幸村は身を引き締め、はい、と返事をして書類を受け取った。

「おい、前田慶次。お前今日、浅井商事と商談だったな。先方に向かう前に打ち合わせしておくぞ」
「オッケー、政宗先輩!んじゃ、ミーティングルーム押さえておくよ」

幸村の背中越しに政宗と慶次の会話が聞こえてくる。政宗はもうすっかり普段の様子で仕事をこなしている。ほんの僅か前、政宗の顔が、声が、吐息すら触れ合う程近くにあった事など、まるで嘘のように思える。

−アンタだから…アンタだけにきまってんだろ、あんな事は。

先達ての政宗の言葉を反芻し、幸村は手の中の書類を握りしめ、ぎゅっと目を閉じた。何故、あの一言で、これ程までに胸の中がざわめくのだろうかと、幸村には不思議で堪らなかった。再び高鳴り始めた心臓の鼓動を静めようと、幸村は小さく左右に首を振った。

「オイ、仕事に集中しろよ!」

頭を小突かれて振り返ると、政宗がネクタイを整えながら立っていた。

「俺は外回りに行ってくる。…後は頼むぜ」

そう言うと政宗は小さく微笑み、幸村の頭に手を乗せて、髪をくしゃっと掻き混ぜた。そして鞄を小脇に抱え、足早にフロアを出て行った。

「い…行ってらっしゃい!」

幸村は椅子から立ち上がって頭を下げ、政宗が出掛けるのを見送った。政宗の姿が見えなくなってから、幸村は再び椅子に腰を掛け、空になった政宗の席に目を遣った。

早く帰ってくればいい…帰って来なければいい。

二つの相反した感情が幸村の心の中で鬩ぎ合う。俄に活気づいたオフィスの中、幸村は誰にも分からぬようそっと溜息を吐き、首元に手を遣ってネクタイをきゅっと締め直すと、手の中の書類と向かい合った。




2010/04/10 up