E-01. 白南風

「…分かったな、伊達!学生なんだから身だしなみはきちんとしろよ!」

もう何十回も言われただろう台詞を残して利家が立ち去っていく。全く、ウザってぇ事この上ない。たかが制服のネクタイを締めていないくらいで十分以上も説教たぁ、教師ってぇのはよっぽど暇な職業なんだな、と思いたくもなる。

「…ったく、貴重な昼休みが潰れるじゃねぇかよ…」

さて残った休み時間をどうするか。確か、元親達が屋上でたむろって居る筈だ。天気もいいし、足を運んでみるか…と思って振り向いた瞬間、背後に立っていた男の存在を認め、その険しい表情に思わず目を瞠った。

「…よぉ、幸村。どうした?…ンな顰め面して」
「どうした?じゃない!俺は見てたんだぞ、伊達!」
「何を?」
「利家先生に注意されていたじゃないか!」

幸村は仁王立ちになり腰に手を当て、口をへの字に曲げて、俺の胸元を指差した。どうやら俺と利家の遣り取りをずっと聞いていたらしい。注意されたのに、それを放ったらかしにしている事が気に入らないようだ。馬鹿が付くほど真面目一辺倒な性格のコイツらしいが、真面目すぎてたまに、風紀委員の浅井より喧しい。

「俺の襟元がどうかしたのかよ?」

わざと素知らぬ顔でそう訊いてやると、幸村の眉間に深い皺が寄る。唇が微かに動き、分かっているくせに、と呟いたのが見て取れた。

「ネクタイだよ!ちゃんと締めろって言われただろ!ボタンだって留めてないし…そんなに胸元を開けてたら、は、破廉恥だろ!!」

たかだか、シャツの上のボタンを二つ外している位で破廉恥だと喚く幸村の奥手ぶりが可笑しくて、思わず喉の奥から笑いが漏れた。

「アンタ、面白いよなァ」
「ば、馬鹿にするなよ!」
「馬鹿になんてしてねぇ。…褒めてるんだぜ?」
「そ、それのどこが!」

生真面目で頭の固い幸村でも、からかわれている事くらいは分かるらしく、僅かに頬を上気させ、食って掛かってきた。その反応を見るのが実に愉しい。…苛めて悦ぶなんざ、我ながら小学生みてぇだとも思うが、拗ねたように怒る幸村がなんだか可愛くて、ついちょっかいを出したくなっちまう。

「と、兎に角、先生に言われた事はちゃんと守れよ!…ネクタイはどうしたんだよ?」

やれやれと肩を竦めながら、徐に制服のズボンのポケットに手を突っ込んで、ネクタイを取り出してみせた。

「ちゃんと持ってるぜ?」
「なら締めろよ!」

幸村は腕組みをし、口を窄めて、相変わらず険しい表情で俺を見ている。コイツ、猿飛や慶次の奴とは仲が良く、いつも楽しそうに談笑しているくせに、俺に対してだけはいつも、一事が万事こんな感じで接してくる。事ある毎に伊達は不真面目だとか、難癖をつけてきやがるし。そういえば同じクラスになってからだいぶ経つが、幸村が俺に笑顔を向けた事がねぇ。ちょっと癪に障って、意地の悪い気持ちが湧き上がってきた。

「どうしても俺にネクタイを締めさせたいみてぇだな?」
「それが校則なんだから、当たり前だろ!」

俺は手に持っていたネクタイをつい、と幸村の前に差し出した。

「なら、アンタが結んでくれよ?」
「なッ…!?」

思いもよらぬ言葉に、幸村も面食らったようだ。黒目がちの大きな瞳を、所在を失ったようにきょろきょろと彷徨わせている。

「な、な、なんで俺が伊達のネクタイを…!大体、自分で結べるだろ!!」
「…アンタが結んでくれるンなら、大人しく従ってやるし、明日からもちゃんとネクタイを締めてきてやるぜ?」
「……………!!!」

幸村は目元を赤く染め、更に口をへの字に結んだ。俺から目線を外し、少しの間俯いていたが、意を決したように顔を上げ、俺の手からネクタイを取った。そして二、三歩、俺の方へと歩み寄る。

「…お、俺が結んだら、明日から毎日ちゃんと、ネクタイを締めてくるんだな?」
「あァ、約束してやるぜ?」

俺の言葉を聞き、幸村はハァ、と小さく溜息を吐きながら、すっと手を伸ばし、俺の首の後ろにするりとネクタイを引っかけた。そして辿々しい手つきで、徐にネクタイを結び始めた。だが、どうも手元が覚束無く、一度目は大剣と小剣の長さが逆になっちまい、解いてやり直した二度目は結び目が不格好に歪んだ。

「…アンタ、不器用だなァ…」

思わず呆れたように言葉を出すと、再び幸村の頬が薄紅色に染まる。

「お、俺はこういう、手先を使った細かい事が苦手なんだよ…」
「…ッつったって、アンタ毎日、ネクタイ締めてンじゃねえか」

幸村が一瞬うっ、と言葉に詰まった。そしてばつが悪そうに、小声でぼそぼそ呟く。

「これは…毎日…佐助に…結んでもらっている…」
「Ha!?なんだそりゃ!?アンタ、自分でネクタイも結べないのかよ?」

呆気に取られて眼下の幸村の顔を見下ろすと、恥ずかしさと悔しさで目を潤ませ、不貞腐れて拗ねた子供のような表情をしている。流石の俺もこれには呆れ、思わず言葉を漏らした。

「…ガキ」

その一言でプライドを刺激されたらしい。幸村は顔を上げ、きっ、と俺を睨み上げた。そしてもう一度、ひん曲がったネクタイの結び目に指を掛けて解き、結び直し始めた。ちょっとムキになったその態度が益々ガキっぽい。

何に対しても真面目に取り組む幸村らしく、ネクタイを結ぶその表情は真剣そのものだ。熱中する余り、無意識のうちに顔がどんどん近付いてくる。鼻先に幸村の柔らかい髪がふわりと触れ、初夏の若草のような匂いがした。ゆるりと視線を床に落とせば、幸村と俺の影が寄り添うようにひたりと重なっている。

「…アンタって…」
「え…?」
「アンタって、俺の事になると、やたらと突っかかってくるよなァ」
「…伊達が校則違反とかしてるからだろ!」
「それだけか?」
「…どういう意味だよ?」

怪訝そうな瞳で俺の顔を見上げる幸村の前髪にするりと指を絡ませながら、俺は思わず口角を上げた。

「アンタ、俺の事が気になってたまらないんだろ」
「な………!!」

髪に触れられた事に驚いたのか、はたまた俺の言葉に動揺したのか、幸村は顔をかっと赤らめて数歩、後ろに飛び退いた。冗談のつもりで言った言葉だったが、この反応は…

「…図星だったか?」
「ち、ちちち、違う!!断じてそんな事はない!!」

幸村は俺と視線を合わせないように、ぎゅっと固く目を瞑り、力一杯左右に首を振るった。押し隠そうとしているのだろうが、全身から幸村の動揺がありありと伝わってくる。幸村の額から汗が一筋、紅に染まった頬を伝って落ちた。胸中に生じた気持ちの揺らぎを悟られたくない為か、幸村はくるりと踵を返し、俺の目の前から走り去ろうとした。

「オイ、待てよ」

俺は咄嗟に幸村の腕を掴んだ。幸村はそれを躍起になって振り解き、しどろもどろに叫ぶ。

「な、なんだよッ!はっ…離せよッ!」
「…まだ終わってねェだろ」

軽く顎を上げ、中途半端に結ばれたままのネクタイを抓み上げてみせると、振り返ってそれを見詰めた幸村の瞳が戸惑いの色を映した。そしてそのまま不本意そうに、ゆっくりと体をこちらに向ける。俺の言葉なんざ無視して走り去っちまえばいいモンを、それをしない、いや、できないというのが幸村の幸村らしい所だ。

「じ…自分で結んだ方が上手くできるだろ!」

精一杯の抵抗とばかりに、幸村が言葉を絞り出す。その間も必死に目を逸らし、俺の方を見ようとしない。その眼差しをこちらに向けたくて、一歩、二歩、幸村の傍へ歩み寄り、右手を掴んでぐいと持ち上げた。

「…アンタにやってもらいてぇンだよ」

幸村の指先を弄ぶように触れながら、ゆっくりと俺の胸元まで引き寄せ、不格好なままのネクタイまで導いた。幸村はでかい瞳をゆらゆらと泳がせながら、金魚みてぇに口をぱくぱくさせた。

「や、やるよ…! だ、だから手を離せよ!」

幸村の指が俺の手の中から逃げだそうと藻掻いた。熱を帯びた指先をゆっくりと解放してやれば、緊張が解けたように幸村が小さくほっと溜息を吐く。

「ほら、早くしろよ。休み時間が終わっちまうだろ」
「わ、わかったよ…」

不本意そうな表情をしつつ、再び幸村が俺のネクタイに手を伸ばす。が、明らかに俺の事を意識しているのがよく見て取れる。指先が小さく震え、先程よりも更に手つきが覚束無い。必死にネクタイを結びながら、幸村がちらりと俺の顔を見上げてきた。が、視線がかち合った瞬間、かあっと顔を赤らめて慌てて目を逸らす。耳を澄ませば、幸村の高鳴った心臓の鼓動までが聞こえてきそうな気さえする。

「…で、できた!」

このまま抱き締めてやったらコイツはどんな反応をするだろうか、などという思いに耽っていた刹那、幸村がぱっと顔を上げた。胸元に視線を落とせば、相変わらず不格好だがさっきよりは少々マシ、という程度に結ばれたネクタイが目に入る。幸村がおずおずと俺の顔を見上げてきたので、小さく息を吐きながら頷いた。

「…まァ、こんなモンか。アンタにしちゃ、上出来だな」
「じゃ、じゃあこれでいいんだな?」
「Ah、Thank you」

幸村の顔が僅かに綻ぶ。と同時に、昼休みの終了を告げるチャイムの音が校舎内に響き渡った。

「…予鈴だ!本鈴が鳴る前に教室に戻らなきゃ!!」

幸村は慌てて教室の方へと足を向けた。俺は咄嗟に、走りだそうとする幸村の腕を掴んで引き留めた。幸村は俺の方を振り返り、眉を顰めた。

「な、なんだよッ!早くしないと授業に遅刻して…」

言葉を遮るように、ぐいと力任せに幸村の身体を引き寄せる。幸村はよろりと蹌踉めいて俺の腕の中に倒れかかってきた。幸村の顔が俺の胸に突っ伏す前に顎を捉え、ぐいと上に向けた。

仄赤く、瑞々しい幸村の唇が目に入る。と共に、戸惑いの表情も。

(Ah…)

俺は一瞬躊躇い、その花唇に重ねようとした自分の唇を咄嗟についと逸らし、代わりに柔らかい頬に口付けた。幸村の身体が一瞬、びくりと硬直して動きを失った。…次の瞬間。

「わァーーーーーーーーーーーーーー…ッ!!!」

幸村が力一杯、俺の身体を突き飛ばし、叫び声を上げた。

「なッ、な、な、何するんだよ伊達…ッ!!!」

慌てふためいておたおたと狼狽する様は、まるでイカレちまった玩具のようで、見ていて思わず吹き出しそうになった。

「何って、礼だよ、礼」
「れ、礼って、こ、こんな礼があるかよッ…!!は、破廉恥な…ッ!!」
「Ha…?たかが頬っぺたにちょっと触れたくらいで、破廉恥もなにもねェだろ?アンタだってKISSくらい、した事あるだろ」

そう言った瞬間、幸村は首まで真っ赤に染め上げた。ぎゅっと目を閉じて固く拳を握り、大きく首を横に振る。

「…まさか、ねえってのかよ?」
「…こッ、高校生の身で、そ、そのような不埒な真似…!!」

…一体、どんな環境で育てれば、こんな純粋培養なお坊ちゃんが出来上がるのか、と、幸村の保護者の武田信玄に訊いてみたくなる。

「じゃァ、今のも、俺が初めてって事か…」

幸村の顔を眺めながら、俺は思わず口角を上げた。この、目の前の、超が付く程奥手な男に、色々と教え込んでやるのも悪くない。俺はつと幸村に近付き、腕を伸ばしてそっと幸村の唇に触れ、親指でついとなぞった。

「なら…“コレ”も俺が予約を入れておくぜ」
「なッ…!!」

幸村は目を瞠り、慌てて俺の手を撥ね除けた。そして、まるでガードするかのように、両手で唇を押し隠す。

「だ、だ、伊達の馬鹿…ッ!!助平!!破廉恥!!!」

恐らく幸村に考えつく精一杯であろう罵倒の言葉を並べ立て、幸村はくるりと踵を返し、逃げ出すようにバタバタとその場から走り去って行った。俺はその後ろ姿を眺めながら、堪えきれずにくっくっと笑い声を漏らした。

…マジで、アイツが居れば、退屈しねェな。

そう思いながらふと、笑いを止めた。幸村に、俺の事が気になって仕方ないんだろ、と言ったが、実はアイツの事が気になっていたのは俺だ。教室で、廊下で、授業中も休み時間も、気付けばアイツの姿を目で追っている。その瞳を俺の方に向けさせたいと、わざとアイツが怒るような真似をした。

(ガキか、俺は)

自分で自分が癪に障り、ゆっくりと顔を上げて天井を仰いだ。瞼を伏せれば、目の裏に先程の幸村の戸惑ったような恥じらったような表情が映る。無理矢理、唇を奪わなかったのは、あの表情を見たからだ。咄嗟に俺は、アイツに嫌われる事を、拒絶される事を恐れたんだ。

(Damn it…!)

小さく舌打ちをした時、鼓膜が本鈴の音を捉える。俺は、幸村が走って行った教室の方へと、ゆっくりと足を向けた。一度立ち止まって、軽く苦笑し、小さく息を吐く。

(俺もまだまだ、修行が足りねぇなァ…)

本鈴の最後の音が鳴り響いたところで、俺は教室のドアをくぐった。足を踏み入れた時、既に席に着いていた幸村と視線が交差した。幸村は照れたような困ったような顔で、すぐに横を向いてしまったが、見える方の耳朶が赤く染まっている。

とりあえず明日、ネクタイを締めていかなかったら、幸村はどんな顔をするだろうか。きっとまた目くじら立てて、約束が違うだのなんだのと、頭から湯気を出して怒るに違いねぇ。その様子がありありと目に浮かんで、再び、可笑しさが込み上げてきた。

(まァ、Gameはこれからだよな…)

窓際の一番後ろ、自分の席に着けば、少し離れた斜め前に座る幸村の後頭部がよく見える。授業開始と共に日直のかけた起立、礼の号令に合わせて、首の後ろで結わかれた一房の長い髪が波のように揺れた。

「よし、今日は教科書の二十一ページから。…真田、読んでくれ」
「はい!利家先生!」

当てられた幸村が元気よく席から立ち上がり、教科書を手に取った。

中天よりやや傾き始めた初夏の太陽が教室内に降り注ぎ、机に色濃い影を落とす。どこか遠くから聞こえる蝉時雨と、教科書を読み上げる幸村の凛とした声を耳にしながら、俺は徐に左瞼を伏せた。

幸村と出逢ってから、初めての夏がやって来ようとしている。




2010/06/06 up

ダテサナ同級生編。珍しく伊達→真田です。