E-02. 日盛りに蝶のふれ合ふ音すなり

「貸せよ、半分持つ」

ぶっきらぼうにそう言い放つと、政宗は幸村に向かって手を差し出した。幸村の両の手には、大量のスポーツドリンクが詰め込まれて膨らみ、重みでしなったコンビニ袋が握られている。

「な、なんで伊達がここに居るんだよ?」
「三年の奴に言われた。『幸村一人で大変だろうから手伝いに行け』、と」

主将に言われて、スポーツドリンクの買い出しの為に一人でコンビニまでやってきた幸村は、目の前に現れた思いがけぬ人物の姿にささやかな動揺を隠し得なかった。
入学して同じクラスになってから、顔を合わせれば何かと喧嘩ばかりしていた男、伊達政宗。余程、相性が悪いのか、それとも自分が嫌われているのか。どちらにせよ、なるべくなら避けたいと思っていた相手だが、何の因果か、入部したのは共に同じサッカー部。否が応でも共有する時間は増え、望まずとも、授業中から部活中まで、ずっと顔を付き合わせている羽目になってしまった。だからといって仲良くなる訳でもなく、相変わらず、寄ると触ると言い争いばかり。

「二人とも、一体、互いの何が気に食わないんだろうなあ?」

級友で、やはり同じサッカー部の前田慶次や、幸村と一緒に暮らし兄弟同然のように育ってきた猿飛佐助も、いささか分からないという風に首を捻った。何が、と言われても幸村にも説明のつけようが無い。政宗は、幸村にだけやたらと絡んでくるし、幸村の方も、政宗の顔を見ると、つい文句をつけてしまうのだ。二人の諍いはクラスでも日常茶飯事、もはや名物のようになっていた。

その政宗が目の前に立っており、幸村に手を差し伸べている。だが笑顔はない。憮然とした表情で、いかにも義務、といった感じだ。

「だ、伊達の手助けなんていらないよ!このくらいの荷物、俺一人で充分持てる!」

まただ、と幸村は内心、苦々しく思う。相手が仲の良い慶次や佐助ならば、素直にありがとうと言って申し出を受けるだろうに、政宗相手だとどうしても、ひねくれた応答しかできないのだ。元来、幸村は純粋で真っ直ぐな心根の持ち主、こんなに意地を張って心にも無い事を口にするなどという事は無い。幸村自身も己の態度に戸惑いつつ、きゅっと唇を噛みしめた。八月の太陽に照らされて、幸村の額から一筋の汗が流れ、頬を伝って落ちていった。

「いいから貸せ。アンタ一人に持たせると、俺が上級生の奴らからガタガタ言われる。アンタのせいでウザってぇ思いをするのは、ごめんだからな」

政宗の物言いに、幸村はかっとして眉尻を吊り上げた。政宗はいちいち一言多い。素直に手伝ってやる、と言えば幸村だって意地にならずに申し出を受けるものを。そうだ、俺のせいじゃない、伊達の態度が悪いんだ、と、幸村は自分に言い聞かせるように思い、政宗から顔を背けた。

「な、なんでそんな言い方しかできないんだよ!? だ、伊達が先輩から文句を言われようが、俺の知った事じゃない!」

そう言い放った時だった。突如、幸村の視界が急激に歪んだ。

「あ…」

小さく呻いた後、幸村の身体がぐらりと揺れた。ブラインドが下りたように目の前が暗く陰り、幸村の意識はそのまま闇の中に吸い込まれていった。



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−




「おい!!幸村!!」

ふと気付くと、政宗が名を呼ぶ声が幸村の耳に聞こえてくる。幸村がゆっくりと瞼を持ち上げると、眼前に自分の顔を覗き込む政宗の顔が見えた。

「…あれ?…俺…?」

白い靄がかかったように頭がぼんやりしている。幸村は自分の置かれた状況を確かめるようにそっと視線を泳がせ、辺りを見回してみた。幸村はコンビニの駐車場の、建物の陰になっている場所に横たえられていた。額がひんやりして心地よい。そっと手を当ててみると、市販の冷却シートが乗せられている。

「気分はどうだ?」
「お、俺、どうしたんだ?」
「アンタ、急に倒れたンだよ…。熱射病だろ」
「熱射…病…?」

頭の中の靄を振り払うように幸村は小さくかぶりを振り、両手で目を擦った。意識を手放していたのはほんのわずかな時間だったようだが、買い込んだスポーツドリンクが暑さで冷たさを失う程には時が経っているようだ。

「このクソ暑いのに炎天下でデカい声張り上げてるからだ。大体、いつも暑苦しいんだよ、アンタは」

隣に座った政宗が呆れたように幸村を見る。揶揄するような口振りにむっとして、幸村は一瞬口を窄めたが、すぐに口元を緩め、小さく息を吐いた。

「少し飲んどけ。起きあがれるか?」

政宗はそう言うと、スポーツドリンクの蓋を開け、幸村に向かって差し出した。幸村はゆっくりと身を起こし、縁石の上に座りなおして、それを受け取った。

「………ありがとう」
「…Ha、アンタが俺に礼を言うなんて、明日は嵐でも来るんじゃねェか?」

政宗が軽く口角を上げた。またそんな言い方を、と口にしかけて幸村は言葉を出すのを止めた。幸村に手渡されたスポーツドリンクは、先程幸村が買ってきたものではない。程良く冷えていて、喉に流し込んだ瞬間、火照った幸村の体の熱を優しく奪っていった。恐らくは政宗が、幸村の意識が戻る頃合いを見計らって新たに買いに行ったのであろう。額に乗っていた冷却シートと共に。

「…こっちが素直に礼を言ってるんだから、そっちも素直に受け取れよ」

幸村は膝を抱えて座り直し、横目でちらりと政宗の方を見遣った。刹那、幸村の顔を見つめていた政宗の隻眼と視線が重なった。

(伊達って、こんな顔をしていたっけ…?)

いつもわあわあ言い争いをするばかりで、幸村は政宗の顔をじっくり眺めた事が無かった。筋の通った鼻、薄く形の良い唇と、まるで完成された芸術品のような端正な顔立ち。そういえば、よく女子が騒いでいたっけ、と、幸村は朧気な記憶を辿ってみた。常に塞がれたままだという噂の政宗の右目は、長めの前髪に覆われて隠されているが、切れあがった涼やかな左目は、思いもよらぬ穏やかで優し気な色を映して、幸村を見詰めていた。その視線を真っ正面から捉えた瞬間、幸村の鼓動が大きくどきりと跳ねた。

(…な…ッ…、ど、どうして…!!)

居たたまれなくなり、幸村は思わずきゅっと瞳を閉じて、胸に手を当てた。その様子を見た政宗が、怪訝そうな表情で尋ねる。

「おい、どうした、大丈夫か…?」

政宗の手がするりと伸びてきて、長く節くれ立った指が幸村の頬を撫ぜた。瞬時に、かあっと顔が熱くなるのを感じ、幸村は思わず息を呑んだ。平気だ、と言いたいのに、まるで喉の奥に小石が詰まっているかのように、言葉がでてこない。

「アンタ、顔赤いぜ?それにまだ、熱持ってンな」

政宗は幸村の頬に指を滑らせ、その熱を確かめた。幸村の眸子の下が仄かに紅潮し、薄く開かれた瞳が僅かに潤んでいる。政宗はそれを、熱射のせいだと思ったようだ。

「ちょっと待ってろ」

小さく言い放つと、政宗は素早く立ち上がって、コンビニの中へと入って行った。後に残された幸村は一人、魂を抜かれたような面持ちでぼんやりと座ったまま、己の頬にそっと手を当てた。

(…熱い)

真夏の日差しが容赦なく幸村の身体を照らしているが、不思議と暑さは感じなかった。だが、政宗の指が触れなぞった箇所が、まるでそこだけ違う細胞でできているかのように熱を帯びて火照っている。そしてそれは頬だけではなく、幸村の胸の奥底にも不可思議な熱を与えていた。

(−俺は、あいつと…伊達とは仲が悪いはずだろ?)

幸村は自分で自分に問うように、心の中で小さく呟いてみた。

(違う…伊達が俺を嫌っているんだ。俺は伊達に嫌われているんだ…)

そんな考えが頭を掠めた瞬間、幸村の胸の奥にずきりと痛みが走った。驚いて胸に手を遣ると、心臓の鼓動が、当てた掌に痛いほど激しく伝わってくる。

(なんで…こんなに…胸が痛むんだろう…)

泣きたいような、切ないような、どこか甘くてどこか辛い痛みが胸の奥に満ちてゆく。幸村は背を丸め、膝をぎゅっと抱えて座り直し、俯いて小さく鼻をすすった。強い日射で溶けそうなほどに熱されたアスファルトの上に、ゆらゆらと陽炎が立ち上って、幸村の視界を揺らがせた。暫し経って、黒く伸びた自分の影にもう一つ、長い影が重なるのが目に入り、幸村はゆっくりと顔を上げた。

「…まだ、気分悪いのか?」

政宗が少し気遣うような声で尋ね、幸村の隣に腰を下ろした。幸村は小さくかぶりを振って、ようやく声を絞り出した。

「…いや、大丈夫」

幸村の返事を聞いて、政宗は安心したように微笑し、手に持ったコンビニ袋の中から何かを取り出した。政宗の手元でがさがさと袋を破く音がする。幸村は小首を傾げて政宗の方に顔を向けた。と、同時に、ひんやりした感触が唇に触れる。

「わっ!冷た…!!」

驚いて目を見開き、目線を下に下げる。唇に触れたものの正体は、白い練乳のかかったイチゴのアイスキャンディだった。

「食えよ。少しは身体の熱が冷めるぜ」

政宗に促され、幸村はそれを受け取って、軽く口に含んだ。よく冷えた棒状の氷菓は幸村の咥内でほろりと溶け、心地よい冷たさと優しい甘みが広がった。

「美味しい!」

幸村の口許がゆるやかに綻ぶ。子供のように無邪気な笑顔に、政宗も思わずつられて鼻先で笑った。

「…単純だな、アンタ」
「…悪かったな」

からかわれた事に少々むっとし、幸村は頬を膨らませて口を窄めた。更に幼い様子に耐えかねたのか、政宗は立てた膝に顔を埋めて肩を震わせて笑った。

「そんなに笑う事ないだろ!」
「Ah…悪ィ悪ィ。だがあんまりにも可笑しかったんで、つい…な」

小刻みに肩を揺らしながら政宗は顔を上げた。左目を眇めた優しげな笑顔。幸村の前では遂ぞ見せた事の無かったその表情に、再び幸村の心の蔵がぐらりと揺れた。

「…お、俺の事を嫌ってるくせに」

内心に訪れた動揺を押し隠すかのように、無意識に幸村の口から言葉が漏れた。言った後ではっとして、幸村は思わず口許に手を当てた。政宗は笑うのを止めて、一瞬、驚いたような表情をし、軽く眉を顰めながら低く呟いた。

「…別に、嫌っちゃいねぇよ」

政宗から返ってきた思いがけぬ答えに、幸村は大きく目を瞬き、改めて正面から政宗の顔を見据えた。

「嘘吐け!…いつも俺に、俺だけに、何かと絡んでくるくせに!」
「それは…」

政宗が口籠もる。何か言おうとしたようだが、言いかけた口を噤み、目を伏せてそのまま押し黙ってしまった。そして顎に手を当て、小さく首を振る。己の気持ちを上手く言い表す術を探しているとでもいうように。

「それは…何なんだよ…」
「…分からねぇ」
「…はぁ!?」

幸村は眉を寄せた。政宗は一つ小さく息を吐いて、頬杖を付きながらゆっくりと幸村の方に顔を向けた。

「…分かんねぇ。けど、アンタの顔を見ると、つい…」
「…それは、要するに、俺のことが嫌いだって事だろ!」
「だから、嫌っちゃいねぇって」

執拗な幸村の問いつめに、政宗が少し苛立った口調で言葉を返す。幸村は訳が分からないという風に小さく頭を振った。

「嫌いじゃないなら…なんで絡んでくるんだよ…」

二人の間に一瞬の沈黙が流れる。政宗はそれを破るようにすうと息を吸い、ゆっくりと吐き出した。そして目を伏せ、心の中を探るように、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

「気に…なるんだよ………何故か、アンタの事が」
「それって………どういう…」
「…知らねェ」

最後は吐き捨てるように言い、政宗はそのまま幸村から目線を逸らした。幸村は、政宗がどんな表情をしているのか気になり、顔を覗き込んでみようとしたが、幸村の方から政宗の顔は見えなかった。微かな風が吹きそよぎ、政宗の髪を軽く撫でて揺らしている。その様を眺めながら、幸村はぼんやりと政宗の言葉を反芻した。

(気に…なる………俺の事が…)

胸の奥で、今まで訪れた事の無い不可思議な感情がざわざわと騒ぐ。心臓が早鐘を打ち、頭がくらりとした。幸村は小さく唇を噛んだ。

「…溶けてンぞ」

政宗がちらと横目で幸村の方を見遣り、手元を指さした。その声ではっと我に返った幸村が目線を下げると、アイスキャンディが溶け始めて滴が落ちていた。幸村は、わっと小さく声を上げ、それを慌てて口に含んだ。イチゴの甘い香りを舌の上に感じながら、幸村はそっと政宗の横顔を垣間見た。

「…伊達」
「…何だよ」
「…なんだか、今日は…」

刹那、滝壺の傍で聞く激しい水音のような、喧しいほどの蝉時雨が降り注ぎ、幸村の言葉は途中で掻き消された。

「Ah…?」

政宗は二、三度瞬きして幸村を見たが、幸村は再びアイスキャンディをくわえ、俯いてしまった。日差しに照らされた幸村の頬は食べ頃の林檎のように、鮮やかに紅潮している。政宗は小さく首を傾げて聞き返した。

「今日は…何だってンだよ、一体」

幸村は答えなかった。政宗は気だるそうに前髪を掻き上げ、息を吐いて正面を向き直った。その様子をちらりと見、政宗に聞こえぬよう小さな声で、幸村はこそりと呟いた。

(ドキドキする…)

喧嘩ばかりしていた政宗と、隣り合わせに並んで座る夏の日の午後に、幸村の胸の中に突然生まれた感情。政宗に手渡されたアイスキャンディのようにほろ甘いその感情が何というものなのかを、幸村はまだ知らない。



2010/07/17 up

日盛りに蝶のふれ合ふ音すなり/松瀬青々
(訳:夏の日中、二つの蝶が空中で触れ合った。かさりと音がしたように思えた。)