E-03. STARMINE 〜スターマイン

「ぅおーい、幸村!そんなに慌てると転んじまうぜ!」

神社へと続く参道には、既に沢山の露店がずらりと軒を並べ、華やいだ賑わいをみせている。人々の楽しげな声や威勢のいい祭り囃子が近くに聞こえて、居てもたってもいられなくなった幸村は、思わず足早に駆けだした。だが、着慣れぬ浴衣の裾が足元に絡んでつんのめりそうになり、見かねた慶次が呆れたように声を掛けたのだった。慶次の隣では佐助が苦笑いしている。

「旦那、そんなに急がなくても、祭りは逃げやしないよ?」
「そんな事は無い!二人とも遅いぞ!早くしないと店が閉まっちゃうだろ!」

幸村は仁王立ちになり、忙しなく二人を手招きした。黒目がちの大きな瞳は露店の明かりを映し、嬉しそうにきらきらしている。幸村は祭りや縁日のような、賑やかな催しが大好きだ。今日の祭りも、何日も前から楽しみにし、指折り数えて待っていたほどである。そんな幸村の様子を見て、佐助は鼻先で小さく笑った。

「旦那、わくわくし過ぎて、昨夜は眠れなかったんじゃないの?」
「お、俺はそこまで子供じゃないぞ!」

からかうような佐助の言葉に、幸村は少し不貞腐れたようにむくれて、頬を膨らませた。佐助と慶次は思わず顔を見合わせ、くっと笑い合った。

「な、なんだよ二人して!ほら早く、行くぞ!」

幸村は佐助と慶次の浴衣の袖口を掴んでぎゅうぎゅうと引っ張った。まるで幼子が両親をせかしているようだな、と佐助はまた可笑しくなった。

参道の入り口の鳥居をくぐると、道の両側には所狭しと露店が並んでいる。この界隈では名の知れた神社の祭りとあって、人出も多く、かなり盛況である。幸村はぐるりと辺りを見渡し、感嘆の声を上げた。

「うわあ…!」

嬉しそうに口許を綻ばせながら、幸村は小さく鼻をひくつかせた。甘い香りが鼻先を掠めてゆく。

「あ、綿菓子だ!」
「おいおい幸村、初っぱなからそれかい?他にも色々、食べ物はあるんだぜ?」
「旦那は甘い物に目がないからねぇ」

三人は楽しげに笑い合った。その時、不意に後ろから声がした。

「あのー、すいません」

高く澄んだ声に振り返ってみると、見知らぬ女性が三人、笑顔で立っている。年の頃は幸村達と同じ高校生くらいだろうか。皆一様に、鮮やかな花や蝶の模様の染め付けられた浴衣を身に纏っていて、とても艶やかだ。

「んー?お嬢さんたち、何か用かい?」

気さくに返事をしたのは、もちろん慶次だ。学校でも多くの女生徒と仲が良く、また人気も高い。その割には特定の彼女というものを作ろうとしないので、佐助は密かに、慶次には誰か好きな相手が居るのでは、と思っていた。

「あの、もし良かったら、一緒に回りませんか?」

三人の女性のうち、一番活発そうな子がにこやかに尋ねてきた。あとの二人はちょっと恥ずかしそうな顔をして、後ろに隠れて様子を伺っている。

「お、もしかしてこれって、逆ナンってやつ?」

佐助が小さく慶次に耳打ちした。こちらも三人、相手も三人。人数も年の頃も丁度良い。しかも三人とも、とても可愛らしい風貌をしている。これは、お誘いを断っちゃあ勿体無いよねぇ、と佐助は思ったが、一つ大きな問題があることを思い出し、ちらりと視線を横に流した。

その「問題」、幸村は、慶次の後ろにひっそりと身を隠し、気まずそうな顔をして俯いている。佐助はふう、と息を吐いて、訊かずとも答えの分かっている問いを、敢えて幸村に向かって投げてみた。

「旦那、俺様たちナンパされてるみたいなんだけど、どうする?」
「な、なななな、なん…ぱ!?」

瞬時に幸村の顔がかっと赤く染まった。ああ思った通り、次に出る言葉まで予想が付くよ、と、額に手を当てながら佐助は苦笑いした。

「そ、そんな破廉恥な事、絶対にダメだ!だ、第一、俺たちはまだ高校生じゃないか!!」

いや今時、ナンパくらい中学生でもするでしょ、と佐助は思ったが、敢えてそれを幸村に言うのは止めておいた。慶次が幸村の方を振り返り、軽い調子で言った。

「別に付き合えって言ってる訳じゃねぇし。一緒に祭りを見て回るくらい、いいんじゃない?」

慶次は人差し指を立てて、顔の前で軽く振ってみせた。幸村は慶次の肩越しにちらりと、三人の女性を見遣ったが、次の瞬間、首がちぎれるのではないかと思う程の勢いで頭を左右に振り、真っ赤な顔で叫んだ。

「だ、ダメだダメだ!!ふ、不純異性交遊なんて、もっての他だ!!」

叫ぶと同時に、幸村はその場から脱兎の如く走り去ってしまった。

「ちょ、ちょっと旦那ぁ〜!」

佐助が慌てて後を追う。三人の女性は、一体何事かと呆気に取られて呆然とそれを見送っていた。慶次は困ったように頭を掻き、その場を取りなすように、明るい笑顔を作ってみせた。

「あー、ごめんなー、お嬢さんたち。あいつちょっと腹具合が悪かったみたいでさー」

慶次の言い訳を信じ、三人はくすくすと笑った。場が和んだ事にほっとした慶次は、女性達に手を振ると、自分も幸村達の後を追いかけた。



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−




「全く、相変わらずだよなぁ、幸村は」

慶次が幸村の顔をじっと眺めながら、呆れたように言った。幸村は少し申し訳なさそうな様子で頭を垂れた。傍では、金魚すくいの店の番をしている中年の男性が、煙草の煙をくゆらせている。吐き出された白い煙は、夏の夜空に吸い込まれてふわりと消えた。

「旦那の奥手っぷりは、天然記念物レベルだからねー」

佐助が肩を竦め、からかうような口振りで言う。幸村はむっとして眉を寄せた。

「お、奥手とかそういう事じゃなく…、だ、だいたい女性の方から男を誘うだなんて、破廉恥極まり無いぞ!」

もしかして幸村は明治時代の生まれなんじゃないか、と疑うような気持ちで、佐助と慶次は顔を見合わせた。

「旦那ってさぁ、『男女七歳にして席を同じうせず』っていう感じだよねえ」
「…っていうか、もう高校生なんだから、いい加減、少しは女の子とか恋とかに免疫を付けておいた方がいいんじゃねえの?」

矢継ぎ早に二人に言われ、幸村はたじたじと後ずさりした。逃がさないとばかりに、慶次が後追いする。

「好きな子…とまではいかなくても、気になる相手くらいは、いないのかい?」

慶次に問われて幸村の心臓がどきん、と跳ね、その脳裏を、とある人物の顔がよぎる。いつも幸村に絡んでくるので喧嘩ばかりしているが、その一挙手一投足が幸村の心をかき乱す。印象的な隻眼の男。その顔を思い浮かべた瞬間、幸村の頬が熱を帯び、かあっと紅潮した。

「お、こいつは意外!お目当てさんが居るのかい?」

慶次が興味津々の様子で、ひゅうっと口笛を吹いた。幸村は頭に浮かんだ男の影を振り払うように頭を振り、困ったようにゆらゆらと目を泳がせた。慶次と佐助の好奇心丸出しの視線が、幸村の顔の上に注がれている。幸村は思わず、ごくりと唾を飲み、唇をきゅっと噛んだ。その時。

「よう、お前等も来てたのか!」

幸村達の耳に、威勢の良い声が聞こえてきた。三人が一様に振り返って声の主を見ると、クラスメイトの元親が、焼き烏賊をかじりながら立っていた。既に祭りを堪能しているようで、反対側の手にはヨーヨーが三つ、ぶら下げられている。

「お、元親も来てたのかい!…って、あんた一人なのかい?」

慶次が尋ねると、元親は頭をぼりぼり掻きながら、顎で後ろをしゃくった。

「こんな賑やかな所、一人で来るのは野暮ってもんだろ?毛利も一緒だぜ」
「貴様が無理矢理引っ張ってきたのであろうが」

さも不機嫌そうな声がし、元親の後ろから、憮然とした顔つきの元就が、すっと顔を出した。この二人、いつも口争いばかりしているようだが、意外と一緒に居る事が多い。二人共、出身地が同じ瀬戸内だという事もあるのだろうか、何だかんだでうまが合っているように見える。元親の紫苑色の浴衣と、元就の松葉色の浴衣の調和が美しい。

「瀬戸内コンビがお揃いかあ」
「もう一人、居るんだけどよ…。あ、来たか」

元親が後ろを振り返り、大きく手招きする。

「ぅおーい、伊達ぇ、こっちだぜ!!」

その名を聞いて、幸村の心臓がどきりと跳ねた。おずおずと視線を向けてみれば、参道の向こうから、名前を呼ばれた隻眼の男が、こちらに向かって歩いてくるところであった。深い夜空の色を写し取ったような、藍染の着流し姿。一見すれば普通の浴衣に見えるが、それが繊細に織られた、稀少な夏大島の着物であるという事に気づく者はここには居ない。

「遅かったじゃねぇか!」

元親が政宗の肩を引き寄せ、その太い腕をがっしりと首に巻き付けようとした。政宗は鬱陶しげにそれを軽くいなし、憮然とした表情で言った。

「てめぇのせいだろうが。財布忘れてきたくせに、人の金で散々飲み食いした挙げ句、さっさと先に行きやがって」
「まぁ、そう言うなよ」

元親は政宗の背中をばん、と叩き、全く悪びれない様子で豪快に笑った。政宗が苦虫を噛みつぶしたような顔をしたが、元親は全く気づかずに、すぐ傍の射的の店を覗き込んでいる。それを見ていた慶次が思わずぷっと吹き出した。

「相変わらずだねぇ、元親は。…ところで、折角クラスメートが揃ったんだから、これから一緒に回らないかい?」
「おう、いいぜ!人数が多い方が、祭りも盛り上がるってもんだ。構わねえだろ? 毛利、伊達」
「嫌だ、と言っても聞かぬだろうが、貴様は」

元就が眉間に白魚のような指を当てながら、諦めきったように大きな溜息を吐いた。その言葉に賛同するように、政宗が肩を竦めて鼻先で笑う。佐助が二人の肩に手を置き、笑顔で言った。

「まぁまぁお二人さん、確かに、祭り見物は大勢の方が楽しいってー。これから花火も上がる事だしさ、皆でわいわやりましょうって、ね?」
「まぁ、いいけどよ」

言いながら政宗がちら、と幸村の方に視線を流した。一歩引いた所で皆の遣り取りを見ていた幸村は、政宗の視線に気づき、慌てて目を逸らした。政宗も無言で、幸村から視線を外した。

「それじゃあ、行こうか!」
慶次が威勢良く音頭を取る。六人になった集団は、再び祭りの喧噪の中を歩きだした。



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「ねぇ、元親の旦那…もういいんじゃないの?」

佐助が手を頭の後ろで組みながら、呆れたように声を出す。言われた元親は、金魚すくいに夢中で、佐助の声など耳に入っていないようだ。

「西海の鬼と謳われた、この長曾我部元親様の腕前、見せてやるぜぇ!!」

そう言う元親の足元には、すくった20匹あまりの金魚の入ったバケツが置かれている。手に持っているのはまだ一つ目の網だが、破れていない。この分だと、水槽の中の金魚全てを元親一人ですくい切ってしまうのではないか、という感じだ。店の主が頭を抱えながら、情けない声を出した。

「ちょ、ちょっと兄さん、勘弁してくれよ、商売上がったりだよ…」
「心配すんな!すくった金魚は、全部元通りに返してやるよ!」

金魚を手に入れる、というよりは、自分の腕前を披露したいだけのようだ。元親は更に気合いを入れ、浴衣の袖を肩口あたりまで捲り上げた。

「…ッたく…」

政宗が渋い声を上げたその時、遠くの方の空が一瞬、明るい光を放った。佐助が眩しげに一瞬顔を顰め、空を見上げた。

「あれ?花火大会、始まったのかな?」
「ん? …まだ開始時間になってないけどねぇ?」

慶次が腕時計に目を遣り、それから、空を仰いだ。

「…稲光だ。降ってこなけりゃいいけど…」

先程まで星が瞬いていた夜空には、いつの間にか雲がかかり、月明かりを隠している。慶次の肩の上に乗っていた夢吉も心配そうに空を見上げ、小さい鳴き声を立てた。と、その直後、一粒の雨粒が夢吉の額に当たり、夢吉は慌てて慶次の浴衣の襟元から懐の中へと逃げ込んだ。

「言ったそばから…降ってきやがったか」

ぽつりぽつりと足元を濡らしだした雨粒は、あっという間に大粒の雨になり、ざあざあと降り始めた。祭り客達は皆慌てて、雨を避けられる場所を求めて散り始めた。

「俺たちもどこかで雨宿りしよう!元親、行くよ!」
「お、おう!!」

慶次が元親を促し、神社の境内の方に向かって走り出した。元就や佐助も後に続く。幸村も走り出そうとしたが、慣れない下駄に足がもつれ、よろめいてそのまま前に倒れそうになった。

「おい!危ねぇ!」

その様子に気付いた政宗が慌てて手を差し伸べ、すんでの所で幸村の身体を支えた。幸村はとっさに政宗の腕にすがりつき、なんとか踏みとどまった。

「あ…りがとう…」
「…ッたく、気をつけろよ」

政宗が小さく溜息を吐く。幸村は自分が政宗の腕にしがみついている事に気付き、顔を赤らめて、慌てて手を離した。

「…あれ、みんなは…?」
「先に行っちまったみてぇだな」

慶次達の姿は、既にその場から見えなくなっていた。他の祭り客も皆どこかに避難したようで、参道には政宗、幸村と、雨から商品を守ろうと慌てて作業する露店商達だけが残っていた。

「俺たちもどこかで雨宿りしねぇと…」

次第に激しさを増してくる雨の様子を見ながら、政宗が呟いた。幸村は小さく首を縦に振り、神社の境内の方へ目を遣った。

「多分、皆あっちに行ったと思う…。この辺で雨宿りができる場所は、あそこぐらいだから」
「OK、行ってみるか」

政宗は頷いて、幸村に向かって手を差し伸べた。それを見て幸村は驚きの表情を政宗に向けた。

「掴まれよ。アンタ、また転ぶだろ」
「…まだ、転んでない」

幸村は少々不満げに、だがおずおずと右手を、差し伸べられた政宗の右手に重ねた。政宗の掌は幸村のそれよりも一回り大きく、そして温かかった。繋いだ瞬間、幸村の心臓がどきりと跳ねた。

「少し走るぜ」

政宗は幸村の手を引っ張り、神社の境内へ向かって走り出した。幸村も覚束ない足どりで、辿々しくも付いていく。

「大丈夫か」
「…なんとか」

走りながら幸村は、政宗が自分のペースに合わせてくれている事に気が付いた。心臓の鼓動はどんどん早くなり、雨に打たれて冷え始めた身体の中で、政宗と繋いだ右手だけがやけに熱い。

(…伊達)

幸村の戸惑いが増し、思わず右手を離してしまおうかと思った時、二人は境内に辿り着いた。しかし既に神社の軒下は、雨宿りをする人々でごった返し、溢れかえっている。

「…ここはもう無理だな」

政宗が軽く舌打ちし、辺りに視線を泳がす。そして神社の裏手の方に目を遣って、小さく頷いた。

「あそこなら大丈夫だろ」

言うが早いか、政宗はすたすたと歩き出した。幸村は慌てて後に続いた。

「ちょ…ここ、いいのか?」

政宗が選んだのは、神社の裏、樹齢三百年と言われる大樹がそびえ立つ場所だった。昼間はその立派な木を見物に訪れる人も多いが、夜は薄暗く、近づく者はあまりいない。政宗の予想通り、今もその場には誰も居なかった。

「別に構わねぇだろ。向こうが人でいっぱいだからな。この大木の下なら葉が覆い茂ってるし、少しは雨が凌げる」
「…だけど、ご神木だって噂もあるし…」

幸村の不安そうな言葉を聞き、政宗は鼻先で笑った。

「そんな事気にしてンのか。…まぁ仮に神様とやらが居るとしても、雨宿りくらいは許してくれンだろ」

言いながら政宗は巨木を見上げ、少し神妙な面もちで軽く木の幹に触れた。そしてくるりと向きを変え、腕組みをしながら太い幹にもたれかかった。幸村は戸惑っていたようだが、政宗が顎をしゃくって促したのを見て、おずおずと木の下に軒を借りた。

空模様は益々荒れ、雷鳴が轟き、直後に稲光が空を明るく照らした。

「…近いな」
「落ちなければいいけど」
「なんだ? アンタ怖いのか?」
「そ、そんなんじゃない」
「手でも握っててやろうか?」
「なッ…何言って…!!」

からかわれて幸村は顔を赤くしてむくれ、そのまま言葉を切って俯いた。人気のない神社の裏、聞こえてくるのは激しい雨粒が木の葉を叩く音と、時折響く雷鳴だけである。

長い沈黙。雨はまだ止む気配がない。少し重い空気に耐えかねた幸村は何か会話を探そうとした。

「…だ、て、…くしゅっ!」

言葉の代わりに出てきたのは小さい嚔。雨に打たれたせいで身体が冷えていたようだ。幸村はぶるりと背筋を震わせ、両腕で自分の身体を抱き抱えた。その様子を見た政宗が声を掛けた。

「…寒いのか」
「…ちょっと」

政宗は顎に手を当て、一瞬考えるような素振りを見せた。
…次の瞬間。

「う…うわっ!」

幸村の身体がふわりと揺れた。政宗に肩を掴まれた幸村は、そのまま引き寄せられて、政宗の腕の中にすっぽりと収まった。政宗の広い胸に顔を埋め、幸村は至極焦って、しどろもどろに言葉を出した。

「ちょ、な、何するんだよ…!!」
「…寒いンだろ。生憎、羽織るようなモンも持ってないしな。手っとり早く暖めるにはこれしかねェだろ」

政宗は事も無げに答えた。幸村は身を捩って、抵抗するように身体に力を入れた。

「は、離せよ…!」
「…嫌なのは分かるが、だからといってそのままじゃ風邪ひくだろ。暫く我慢しろ」
「う…」

幸村は藻掻くのを止め、身を竦めるようにして政宗の腕の中に包まれた。ひたりと重ねた身体から、政宗の体温が伝わってきてとても温かい。砂時計の砂がさらさらと落ちるように、静かに時が過ぎてゆき、降り続く雨の音もいつの間にか幸村の耳から消え、己と政宗の心臓の鼓動だけが響いてくる。とく、とくと規則正しい心音に誘われ、幸村はいつしか瞼を閉じて、政宗の逞しい胸にその身を委ねていた。

「…止まねェな」

幸村の耳元で政宗が低く呟いた。その声で俄に意識がはっきりし、幸村は慌てて顔を上げた。

「も、もういい!もう十分、暖まったから!」

焦って身を離そうとする幸村の顔を見下ろし、政宗は微かに眉を顰めた。

「…アンタ、そんなに俺の事が嫌いか?」
「…!」

唐突な質問に、幸村は一瞬、答えに詰まった。目の前に居るのは、自分の何が気に入らないのか、寄ると触ると突っかかってきて、諍いばかりしている相手。にもかかわらず何故か、嫌いだ、と即答することができない。小さくごくりと唾を飲んだ後、幸村はそろりと口を開いた。

「お、俺のことを嫌っているのは、伊達の方だろ」

幸村の答えを聞いた政宗は、ぴくりと片眉をつり上げ、不機嫌そうに口角を下げた。

「…だから、嫌っちゃいねぇって」

今までに何度も繰り返した押し問答。互いに、そっちが自分を嫌っているんだと主張しあい、堂々巡りの水掛け論のようになった後、大概は慶次や佐助が仲裁に入り、うやむやのうちに喧嘩が中断されるのがいつものパターンだった。だが今は止めに入る者がいない。政宗は慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと声を出した。

「嫌っちゃいねぇ…。………むしろ…」

言いかけて政宗は言葉を切り、深い溜息を吐く。一瞬動きを止めた後、幸村の背に回していた腕に、徐に力を込めた。

「…!」

突然、強く抱き締められて幸村は至極戸惑った。心臓が更に早鐘を打ち、頭にかあっと血が上って、意識がくらりと揺らいだ。

「…は、なせ」
「…嫌なら振り解けばいいだろ」

少々の体格差があるとはいえ、同年代の男子。振り解こうと思えばわけなく振り解けるが、何故かそれができなかった。政宗の腕の中は暖かく、とても心地よい。幸村の意識の表層には、政宗を拒む気持ちがあるのに、それとは裏腹に、心のどこかに、このままずっと身を委ねていたいという気持ちが確かに存在し、幸村を混乱させている。

「こ、これ以上、俺の気持ちを掻き乱すなよ…!」

幸村の口から思わず本音が零れる。顔が火照って熱い。心音が高まり、五月蠅いほどに耳に響いてくる。

(違う、違う、掻き乱されてなんていない、伊達の事なんて何とも思っちゃいない、俺は…)

心の一番深い場所、己ですら手が届かないような深層の意識の中にほつりと灯った想いを否定するように、幸村は自分自身に言い聞かせた。無意識のうちに、政宗の浴衣の襟元を握りしめていた手に、ぎゅっと力がこもった。

「幸村、アンタ…」

政宗がそっと幸村の顎に親指と人差し指をかけ、くっと上に持ち上げた。そして政宗から逸らそうと必死な幸村の大きな瞳を無理矢理、自分の方に向けさせる。その瞳に映った幸村の感情を、政宗はその隻眼で捉え、瞬時に読みとった。惑いと、畏れと、…そして。

紅潮した幸村の柔らかい頬。それを政宗は大きな両の掌で包み込み、そっとなぞった。そして足を一歩前に進め、大樹の幹に幸村の身体を押しつけた。

「…!!」
「…逃げンなよ…」

鼻の頭が軽く触れ合った。幸村は一瞬、息を飲む。政宗はその切れ長の左目を、ゆっくりと閉じた。

「あ…」

言葉を出しかけた幸村の唇を、政宗が優しく塞ぐ。幸村は思わず息を止めた。唇を重ねられても、幸村は呆然と固まったまま、目を閉じる事すらできずに、触れ合っている箇所の熱を感じていた。頭の中が真っ白になってゆき、意識がぼんやりと薄れて消え入りそうになった刹那、政宗の髪がふわりと耳朶を擽り、幸村ははたと我に返った。

「ん…ッ!」

小さく抵抗するように、幸村が喉の奥から声を漏らした。政宗はゆっくりと瞼を持ち上げて重ねた唇を離し、幸村の顔を見た。

「…目ぐらい閉じろよ」

声を掛けられた瞬間、幸村は首筋まで赤く染めあげて、口をぎゅっと一文字に結んだ。何か言いたいのだが言葉が出てこない。口を開けば、零れてしまう。心の奥深い場所に押し留めてあるものが。

政宗は再び、幸村に顔を近づけ、軽く啄むように幸村の鼻先に口付けた。幸村はびくりと身体を震わせ、思わずぎゅっと目を閉じた。

「そのまま、目ェ閉じてろ」

命じるように政宗が言い放ち、もう一度、唇を触れ合わせた。

「だ…て」
「黙ってろ」

政宗は深く幸村の唇を追い、その焦りも戸惑いも恥じらいも容赦なく奪った。縋りつくように政宗の肩を掴んでいた幸村の手が小刻みに震えている。甘く乱れた幸村の吐息に触れながら政宗は、先程言いかけて止めた言葉をゆっくりと心の中で咀嚼した。

政宗は合わせていた唇をずらし、幸村の唇を舌で割って、そのままするりとそれを滑り込ませた。舌と舌が絡み合った瞬間、幸村がびくっと身を固くして、微かに首を左右に振った。思わず哀れになる程に幸村の緊張が伝わってきて、政宗は少し苦笑しながら、そっと唇を離した。その瞬間、一気に緊張が解けたように、幸村は大きく息を吸い、はあ、と長い溜息を吐いた。政宗は幸村の顔を見下ろして、薄紅色に染まった頬を手の甲で一撫でし、静かに訊いた。

「…アンタ、もしかして初めてか」

幸村は一瞬ぴく、と肩を揺らし、政宗から目を逸らして俯いてしまった。答えられないという事は肯定しているも同じだと分かっていても、今の幸村には何も言う事ができなかった。

「なんで抵抗しなかったんだ?」

そう問われてようやく、幸村は口を開き、絞るように言葉を出した。

「そ、それは…、伊達が無理矢理…」
「嫌だったら俺を突き飛ばして逃げりゃ良かっただろ。アンタならそれくらい、できた筈だ」
「………」

そうだ、できた筈だ、なのに何故そうしなかったんだ、と、幸村は己に問う。政宗に触れられた瞬間、いつかどこかで感じたような、心の中に温かな篝火が灯るような、優しく切ない気持ちが、ひたひたと潮が満ちるように胸に広がっていった。その気持ちと、今まで政宗に対して抱いていたわだかまりとが鬩ぎ合い、幸村は葛藤していた。無性に居たたまれなくて、政宗の顔を見ることができない。政宗の視線がずっと自分の顔に注がれている事は知っているが、いま瞳を合わせたら、涙が零れてしまいそうなほどに、胸の奥がちりちり痛んでいる。

(…俺は…伊達を…)

心に生じた淡く甘い想いを打ち消すように、幸村は首を振った。

「お、俺は伊達のことなんか嫌いだ」

政宗が左目を眇めて、幸村の顎を掴んだ。そのままぐいと自分の方に向け、無理矢理、視線を合わせた。

「もう一度、俺の目を見ながら言ってみな」
「うッ、嘘じゃない…!俺はホントに…」

幸村の言葉はそこで途切れた。刹那、政宗は僅かに口角を上げ、そっと幸村の耳許に唇を近寄せて低く囁いた。

「…俺は…アンタが…。アンタの事が…」

どくん、と心臓が跳ねるのが分かり、幸村は驚いたように目を見開いて、ごくりと一つ唾を飲んだ。

「だ…て」

幸村は思わず息を詰めて、政宗の口から次の言葉が零れるのを待った。その刹那。

どおん。

不意の大きな音に、政宗も幸村も驚いて顔を上げた。次の瞬間、七色の光が降り注ぎ、二人の顔を鮮やかに照らした。

「あ…花火」

幸村が夜空を仰いだ。いつの間にか、あの激しい雨はすっかり止んでおり、予定より少し遅れて花火大会が始まったようで、境内や参道の方から、わあっという歓声が聞こえてきた。

「Shit…」

政宗が小さく舌打ちをした。幸村は、はたと政宗の顔に視線を戻し、額にうっすら滲んだ汗を浴衣の袖口で拭いながら、おずおずと訊いた。

「伊達…、あの…その、俺の事が…って…」
「…気が削がれた」

政宗はさも不機嫌そうに腕組みをし、幸村にくるりと背を向けると、すたすたと神社の入り口の方へ向かって歩きだした。幸村は慌て、とっさに政宗の腕をはしと掴んだ。

「ちょ…ッ、待てよ!き、気になるだろ!」

政宗は足を止め、ちらと振り返って呆れたように幸村を見た。

「…鈍いよなァ、アンタ」
「なッ…どういう意味だよ!?」
「…言葉通りだ」

すぱっと切るように言い放つと、政宗は踵を返し、再び歩き始めた。政宗の言葉が腑に落ちぬ幸村は、憮然とした面もちで、政宗の背中を眺めていた。

「何やってンだ、早く来いよ」

政宗は再び立ち止まり、幸村に向かって手を差し伸べた。幸村はちょっと躊躇した後、乾いた唇を軽く舌で舐めて潤すと、政宗の後を追って歩き出した。



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





「おーい、伊達、真田!ここだここだ!!」

他の者よりも頭二つ分ほど背の高い元親が、目ざとく政宗と幸村の姿を確認し、大きく手を振って合図をした。

「早く来ねぇと花火終わっちまうぞ!折角、いい場所を取ったんだからな!」
「喧しい野郎だぜ…」

元親が声を張り上げて二人を呼んでいる。周囲の人達がちょっと眉を顰めて元親を見た。政宗はその様子を見て、額に手を当て、やれやれというように軽く頭を振った。

「行こうぜ」

政宗に促され、幸村はこくりと頷いた。そして慌てて、繋いでいた手を離そうとした。

「…!」

刹那、政宗が手にぎゅっと力を込める。離すな、と言わんばかりの行為に、幸村は焦り、政宗の大きな手の中から無理矢理、自分の手を引き抜いた。

「…」

政宗は何か言いたげに、その左目を幸村に向けたが、すぐに前に向き直り、元親達の居る輪の中へと入っていった。

「一体何処にいたんだい、お二人さん?ずっと探していたんだぜ?」
「Ah…、まァ、ちょっと別の場所で雨宿りを、な」

慶次の問いかけに、政宗はさらりと答えた。それを聞いて少し顔を赤らめた幸村の肩を、佐助がとんとんと叩いてそっと耳打ちした。

「…大丈夫?喧嘩なんてしてない?」
「し、してないよ」
「そう?それならいいんだけど。でも珍しいね、伊達の旦那と一緒なのに喧嘩しなかったなんて」
「…」

それ以上答えられず、幸村は黙って口を噤み、俯いてしまった。そして無意識に、そっと唇を指でなぞる。

(…伊達…)

幸村はゆっくりと顔を上げ、慶次と話す政宗の方に目を遣った。どおん、どおんと夜空に艶やかな花が咲き、ぱらぱらと光の雨が降ってきて政宗の端正な横顔を照らす。まるで秀麗な絵画のようなその光景に、幸村は暫しぼんやりと見入っていた。やがて幸村の視線に気づいた政宗が、ゆっくりと顔を向け、他の者に気づかれないよう、そっと柔らかな笑みを零した。

「…!」

幸村は居たたまれずに、すぐに政宗の眼差しから逃げ出してしまった。そして、右手で浴衣の袷をぎゅっと掴み、左手を心臓に当てがった。

(胸が…痛い)

きりきりと焼けるような痛みが胸の奥に走り、涙がじわりと滲んでくる。大砲のような花火の音よりも、自分の心臓の音の方が大きく聞こえる。周りに大勢の人が居るというのに、目に入ってくるのはただ一人、政宗の姿だけ。

幸村はもう一度、人差し指でそっと己の唇に触れてみた。ほんの僅か前に交わし合った口付けの記憶は、もう遙か遠いもののような気もするが、それでも幸村の唇は熱を帯び、政宗の温かい唇の感触を留めている。

(聞きたい…知りたい、あの言葉の続きが)

幸村の心に寄せる想い。それはまるで、熟れた果実のように甘美で、切ない悦びを幸村に与えた。だが同時にそれは、出来立ての傷口のようにひいひいと痛み、いつまでも胸の奥でずくずくと疼き続けた。



2010/09/25 up

ダテサナ同級生編。
「日盛りに〜」の続きっぽかったり、そうでもなかったり。 (どっち