A-07. 露時雨/幸村

酒に酔い潰れてしまわれた政宗殿を前に、俺は少々途方に暮れた。どんな時でも奥州筆頭としての矜持を崩さず、毅然とした態度を取られていた政宗殿の、醜態…ともいえるような姿を見るのは初めての事だ。

兎も角も、政宗殿は今、俺の目の前で正体を失ったようにぐったりと横たわっておられる。

「ま…政宗殿?大丈夫でござるか?某の声が聞こえておられるか?」
「Ah………ん…」

掠れたような声で小さく唸るばかり。これでは埒があかぬ。このまま放っておく訳にもゆかない。まだ肌寒い季節、縁側で眠り込んでしまわれては風邪をひくやもしれぬ。

「と、兎に角、起きて下され。某が寝所までお連れ致す故…」
「ンー…?…幸村、もっと呑めよ…」

瞼の下りた左目を開けることなく、政宗殿は楽しそうに歌うように呟く。相当、酒が回っておられるようだ。力無く撓垂れかかる身体を抱き起こし、肩を貸して立ち上がらせた。そのまま政宗殿の寝所へと向かったが、政宗殿の足元が酷く覚束無い。千鳥足で、あちらへふらふら、こちらへふらふらと身が揺れる。俺も体力には自信のある方だが、流石に自分よりも一回り体躯の大きい政宗殿を支えるのは、かなり大変だ。

「ま…政宗殿、もう少し故、しっかりして下され!」

なんとか政宗殿を誘導し、寝所へと辿り着いた。部屋の中央に設えられている褥に政宗殿をそっと横たえ、思わず安堵の溜息を吐いた。

「う…ン…」

政宗殿が苦しげに顔を歪め、小さく呻き声を漏らす。もしや気分が悪いのか、と心配になり、肩を掴んで軽く揺さぶった。

「政宗殿…大丈夫でござるか?水をお持ち致そうか?」

そっと掌で額に触れてみた。熱などは無いようだ。…それよりも自分の方が体温が高いような気がする。政宗殿に勧められるまま呑んだ酒のせいだろうか。…ほんのちょっとしか口をつけていないのだが。

とその時、政宗殿が急に俺の背に手を回し、身体を引き寄せた。思わぬ事に蹌踉めいて、俺は政宗殿の腕の中に捕われた。

「ちょ…何を…!」

政宗殿の隻眼がうっすら開く。熱を湛えたその瞳は、どこか色香が漂い、何かに誘うように挑発的で、思わず吸い込まれそうになる。このような眼は…今まで見た事が無い。心臓が大きく、どきりと跳ねた。俺の心の奥底で何かが、危険だと警鐘を鳴らす。いけない、目を逸らさねば。…そう思う気持ちとは裏腹に、蛇に睨まれた蛙のように、身体が強張って身動きが取れなくなっていた。

「ゆき…むら…」

唇がゆっくり動き、政宗殿が艶めいた声で俺の名を呼んだ。そしてそのまま、俺の耳朶に唇を寄せて、舌でぺろりと舐めた。

「………!!」

耳朶に触れられる事など…ましてや舐められるなど、生まれてこのかた、された事が無い。背筋がびくりと震え、言い表せぬ感情が身の内を貫いていった。

「…お戯れを…ッ!!」

なんとか政宗殿の腕を解こうと身を捩ったが、強い力で搦め取られているので如何ともしがたい。耳許で政宗殿の荒い吐息が聞こえる。俺の心臓は益々早鐘を打ち、俄に顔が上気するのが分かる。この腕の中から逃れなくては、と、必死で抵抗を続けていた俺の耳に、政宗殿が何やら呟いたのが聞こえた。

「…え?」

言葉を拾えなくて聞き返そうとしたその瞬間、政宗殿の右手が俺の顎をぐいと掴んで引き寄せた。

「政…む………!!」

俺の言葉はあっという間に掠め取られた。政宗殿の唇が俺の唇を塞いだ。吐息が触れる。大きな手が頬を撫でる。息ができない。

「ぅあ………んんッ…」

身体の芯が痺れるような、脳が麻痺してしまいそうな感覚に襲われ、俺は慌てて身体に力を入れ、必死で、触れ合った唇を離した。政宗殿は夢現を彷徨っているような眼で俺の顔を見上げていたが、やがて左瞼がゆっくりと閉じ、安らかな寝息が聞こえてきた。それと同時に、俺の背に回されていた逞しい腕がゆるやかに解かれ、力無くぱたりと床に落ちた。

「う…………!」

俺は矢庭に立ち上がった。ひどく居たたまれない気持ちになり、すぐにでも寝所を飛び出したかった。しかし眠りに落ちた政宗殿を捨て置けず、政宗殿の身体の上にそっと掛け布団を乗せた。だが穏やかな表情で眠る政宗殿の顔が目に入ると、顔から火がでそうな程の羞恥心にかられた。そして逃げるようにその場を後にした。

心臓の鼓動が耳許で聞こえる。息が激しく荒い。胸が苦しい。手が震える。心の奥がちりりと痛み、なんだか泣きたいような気持ちが湧き起こった。

初めての…………口付け。

思いもかけず突然触れられた政宗殿の唇は、とてつもない美酒のように甘やかで魅惑的なものだった。だがそれはまた、致死性の毒のように刺激的に、俺の心と身体を蝕んだ。



2010/02/27 up

「酒は詩を釣る色を釣る」に続きます。