F-05. 蒼月恋歌

絢爛豪華に設えられた部屋の中、鯱張って正座していた幸村は、居心地の悪さを感じて足をもぞもぞと動かした。幸村のおどおどした様子を面白そうに眺めていた政宗は、煙管を深く吸い込むと、徐に煙を吐き出した。幸村の眼前に、白煙が靄のように燻って一瞬視界が遮られ、そこに居る筈の政宗の姿が隠れて消える。煙管など嗜んだ事のない幸村は、煙を吸い込んで噎せ返り、俄かにごほごほと咳き込んでしまった。

「Heyアンタ、もうちょいとRelaxしたらどうだ」
「…え?」

耳慣れぬ異国の言葉に戸惑い、幸村は忙しなくぱちぱちと目を瞬かせた。

「楽にしろ、って言ったんだよ。まるで借りてきた猫みてぇに怯えてやがるぜ」

幸村とは対照的に、政宗は寝そべって頬杖を付いた体勢で寛ぎ、ゆったりと煙を燻らせている。咥えている煙管は、さぞかし名のある職人の手によるものであろう、羅宇には黒檀、雁首には純銀が使われ、吸い口には細かい彫り物が刻まれている。無造作に見に纏っている着物も、金糸銀糸の織り込まれた艶やかなもので、幸村は自分の身なりのみすぼらしさと見比べ、肩を窄ませた。

「アンタ、廓は初めてか」

政宗に訊ねられ、幸村は気まずそうにこくりと頷いた。色事などに全く縁も興味もない幸村にとって、遊郭など海の向こうの異国よりも遠い場所だ。さらにここは、花街の中でも最も格が高いと名の知れた廓であり、目の前に居るのは、界隈では知らぬ者は居ないと言われた男。政宗を揚げるために、何人もの各界の高名な人物が莫大な金子を費やし、身代を持ち崩した者さえいるという。それでも政宗を望む者は後を絶たない。傾城の美男と謳われる男花魁、それが政宗であった。本来ならば、一介の書生である幸村などには到底手の届かぬ高嶺の花である。

「傷、まだ痛むのか」

政宗はするりと手を伸ばし、包帯の巻かれた幸村の右手を取った。指先が触れた瞬間、幸村はびくりと身を強張らせ、顔を赤らめて視線を逸らした。

政宗はその態度に少し呆気に取られたように左目を瞠り、幸村の顔をまじまじと眺めた。幸村はその視線から逃れるようにぎゅっと目を閉じて、己がこのような場違いな処に連れてこられる原因となった、先達ての出来事を蘇らせた。







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目当ての書が入荷したという連絡をもらった幸村は、日が落ちる前にと、急ぎ書店へ足を向けた。書を受け取り、馴染みの店主と少し雑談を交わした後、店を出ると、表通りになにやら人垣ができている。

「な、何事…?」

書を小脇に抱えたまま、きょとんとした顔で立ち竦んでいる幸村に、傍に居た男が気さくに声を掛けてきた。

「なんだ、あんた知らないのかい?花魁道中だよ!」
「おいらん…どうちゅう?」

耳慣れぬ言葉に、幸村が不思議そうな顔をすると、男は驚いたように幸村を見返した。

「おいおい兄さん、みたところ十六、七くらいだろう?その年で遊郭にも行ったことがないってのかい?」
「な、何を申されるか!!そ、そのような破廉恥な処に行くなど、以ての外でござる!」

さも当然と言わんばかりの男の問いに反論するように、幸村は顔を顰め、微かに頬を赤らめた。男は物珍しそうに幸村をしげしげと見、感心したようにふうん、と頷きながら顎を撫でた。

「随分と初心な兄さんだねえ。見たところ書生さんのようだけど、人生、学問ばかりじゃあつまらねぇよ。少しは色事も嗜まねえとな!」
「…」

幸村は男の言葉に不満げに眉を寄せた。その時、通りに並んでいた人垣から、わあっという歓声があがり、男も顔を上げて叫んだ。

「おおっ、来た来た!」

言うが早いか、男は幸村の腕をぐいと掴んで引っ張った。

「な、何をされるか!」
「こんな後ろに居たんじゃ見えないだろ!兄さんも一度拝んどけよ!」

男は周りの野次馬をかき分け、幸村を人の波の中へと引き込んだ。幸村は本を落とさぬよう必死で小脇に抱え、もみくちゃにされながら、転げるように人垣の一番前へと躍り出た。

「うう…強引な…」
「ほら兄さん!ぶつくさ言ってないで見てみなよ!命の洗濯になるぜ!」

男が興奮気味に幸村の肩を叩き、通りの向こうを指差した。幸村は差された方にゆっくりと目を向け、そのまま息を呑んだ。

通りに沿って植えられた満開の染井吉野が、風に揺られてちらちらと花弁を散らし、淡雪が降っているかのようである。その向こうから、十から十四、五くらいの若い遊女を先頭にした、煌びやかな行列がやって来る。桜に負けじと美しく化粧を施した遊女達は、周りを取り巻く人々にちらりちらりと流し目をくれながら、しゃなりしゃなりと練り歩いてゆく。それはまるで、今を盛りにと咲き誇る花のように艶やかで、夢のような光景だった。
だが、幸村の目線は、そんな百花繚乱な遊女達を通り越していた。どこかあどけなさが残り、例えていうなら雛菊のような若い遊女達の後ろから、ひときわ豪奢な着物を身に纏った花魁がゆっくりと歩んでくる。優美なその姿はまるで、大輪の牡丹。

「なんと…美しい」
「だろ?なんたって、この界隈一の太夫だからな!あれで男だってんだから、驚きさね」
「…え!?」

幸村は男の言葉を聞いて、忙しなく目を瞬かせた。贅を尽くした高級な着物や簪で身を飾ったその姿は、どう見ても美しい女性。あれが男だと言われても俄かには信じ難い。幸村は、目の前を通り過ぎようとする太夫の姿をまじまじと眺めた。
刹那、太夫と視線が交差した。切れ長の目に捉えられ、幸村の動きが一瞬止まる。耳元で、どきりと鳴った胸の音が聞こえたような気がした。太夫は幸村の顔に視線を注いだまま、ゆっくりと歩みを止めた。
道中の途中で太夫が立ち止まるなど、今までにない事で、近くに居た群衆は太夫の姿をもっとよく見ようと、一斉にわっと太夫の方へと押しかけた。

「う、うわっ!!」

幸村は人波に押し出され、もんどりうって転がるように前のめりに倒れ、そのまま地面に突っ伏した。

「お、おい兄さん、大丈夫かい!?」
「うう…」

傍に居た男が慌てて幸村に声をかける。幸村は小さく呻いて、泥だらけになった顔を上げた。転んだ弾みで顔を打ち、口の中が切れたらしく、鉄の味がした。

「痛…」

幸村はひとつ溜息を吐き、ゆっくりと体を起こした。つと顔を上げると、目の前に手が差し伸べられている。

「か、かたじけのうござる…」

幸村は礼を述べ、その手を取った。と、周りからざわっ、と、どよめきが起きた。

「な、何事…?」

一瞬の戸惑いの後、幸村はすぐにそのどよめきの意味を察した。己が取っている手、それはあの太夫のものであった。呆然と顔を見上げる幸村に向かって、太夫が声を掛けた。

「…Are you alright?」

太夫の声を聞いた幸村は、ああ、確かに男性だ、と納得した。きらびやかな姿に似つかわしくない低い声。だが間近で見た太夫には、一際の美しさと艶っぽさがあった。

(女性でもこれほどの美貌の持ち主はなかなか居るまいな…)

幸村の頭の中を、漠然とそんな考えが過ぎっていった。暫し時が止まったように、幸村は太夫に目を奪われていたが、太夫に、握られているのと反対の手で頬を軽くぴしゃりと叩かれ、はっと我に返った。

「おい、アンタ、大丈夫かって聞いてんだよ?」
「え………あっ!」

我に返ったと同時に、かっと頬が熱くなるのを感じ、幸村は俄に動揺した。

「も、申し訳ござらぬ!だ、大丈夫でござる!!」
「…ならいいが。立ち上がれるか?」
「は、はい…!」

太夫が手に力を入れて幸村を引き起こした。優美な姿とは裏腹な強い力で引っ張られ、幸村の身体がぐらりと揺れた。よろけた幸村はとっさに太夫の腕にすがりついた。

「か、かたじけのうござる…!」
「Don't worry」

太夫が幸村に微笑んでみせた。切れ上がった目元が微かに緩む。その優しげな表情に何故か居たたまれなさを感じた幸村は、慌てて視線を逸らし、ふと太夫の着物の袖口に目を遣ると、赤黒い染みがついていた。それが己の血だという事に気づいた幸村は大いに焦った。

「も、申し訳ござらぬ!某、お召し物を汚して…」
「…Ha、こンくらい、どうってことねェさ。それよりもアンタ、怪我してンのか?」

太夫は袖の汚れは気にも留めぬ様子で、幸村の手をぐいと自分の方へ引っ張った。見ると、掌に小石が刺さり、そこから出血している。

「Ah…まァ大した事はねぇが、利き手だろ?それに…」

太夫はつと手を持ち上げ、着物の袖口で幸村の口の端をそっと拭った。

「口も切ってるな。血が出てる。手当てした方がいいな。うちの妓楼に来いよ」

言うが早いか、太夫は幸村の腕を掴み、今来たその道を引き返し始めた。慌てたのはお付きの若い遊女達と、周りの群衆である。花魁が客の処に渡る道中で引き返すなど、前代未聞である。

「た、太夫!お大尽が揚屋で待っておられますえ!」
「知った事か、そんなモン。放っておけ」

若い遊女達はおろおろして太夫を止めたが、太夫は取るに足らない事のように軽くいなすと、すたすたと歩きだした。幸村は周りの野次馬達の好奇や嫉妬に満ちた視線を浴びて大いに戸惑い、おずおずと太夫に声を掛けた。

「た、太夫殿…!!皆、心配されておりますぞ…!!」
「気にすンなって言っただろ。それにその『太夫殿』って変な呼び方は止せ」
「し、しかし太夫殿…!」

太夫は眉間に軽く皺を寄せ、顔をずい、と幸村に近寄せ、口を開いた。

「政宗、だ」

そう呼べ、と命令するような口調で言い放ち、政宗は再び幸村を連れて妓楼の方へと足を向けた。幸村はただおたおたするだけで、この強引な男のなすがままに、ただ後を付いていくしかできなかった。





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「…お客人を放り出してしまってよかったのでござるか」
「アアン?…別に構やしねぇよ。金と権力をひけらかすしか能のねェ、脂ぎったオッサンの相手には辟易していたところさ」

心配げな幸村の問いに、政宗は口にした煙管を深く吸い込み、悠々と煙を吐いた。

「しかし…その…、某、あまり詳しゅうないのでござるが、郭遊びにはたいそうな金子がかかるとか…」
「Ah…まァな。うちは特に格が高いらしいから、一晩六〜七十両くらいは飛ぶんじゃねぇか?」
「ろ…!!!」
「ま、俺は百両以下じゃあ、招きには応じないけどな」
「ひゃ…!!!」

幸村はあまりの驚きに口をぽかんと開けたまま、言葉を失くした。相場は知らないが、百両などという大金は、一介の書生である幸村には一生かかっても手にする事などできまい。なるほど、何人もの大尽が身を持ち崩したというのが容易に頷ける。

「で、では今日は…百両もの大金を…某のせいで…」

幸村が申し訳なさそうに俯く。それを見ながら政宗はゆっくりと身を起こし、つと幸村の傍に寄って、からかうように囁いた。

「…アンタが、お大尽の代わりに今日の俺の客になってくれりゃ済むんだがなァ?」
「なッ…!!そ、某にはそのような大金、とてもじゃないが払う事ができませぬ…!」

政宗の冗談を真に受け、幸村は酷く狼狽し、着物の袖で額の汗を拭った。政宗は思わず鼻先でくっと笑い、ひらひらと手を振りながら言った。

「Not to worry…。今日は、俺のせいでアンタに怪我させちまったからな。それで帳消し…ってのはどうだい?」

政宗は不敵に笑い、更に幸村の方に身を近寄せた。政宗ににじり寄られ、幸村は更に汗を滲ませながら一歩、後ずさりをした。

「そ、そもそも郭遊びなど…どのような事をすればよいのか…!」
「…アンタ、本当に何も知らねぇんだな。まァ、酒の相手をしたり、望まれりゃあ楽器や唄、踊りなんかもやるな。あとは…」
「…?」
「決まってンだろ、閨の相手…床入り、だ」

床入り、という言葉を聞いて、幸村はかっと顔を赤らめた。

「なッ…!は、破廉恥な!!」

政宗は呆気に取られたような表情をし、幸村の顔を見たが、小さく溜息を吐くと、ゆっくりと前髪を掻きあげ、膝を立てて座りなおした。

「…破廉恥、って言われたってなァ。それが俺の仕事だからな」

幸村ははっとしたような顔で政宗を見、伏し目がちに俯いて己の非礼を小さく詫びた。

「も、申し訳ござらぬ…!」
「まァ、アンタいかにもお堅そうだからな…」

政宗はにやりと口角を上げると、すっと手を伸ばして幸村の両の手首を掴み、そのまま荒々しく床に組み伏せた。

「うわっ!!」
「…ってぇ事はだ、当然、こういう経験も無い…って事だよなァ」

仰向けに倒された幸村の身体の上に多い被さり、政宗は楽しげな笑みを浮かべた。目を白黒させる幸村の顔に、己の顔を吐息がかかるほどに近寄せると、手の甲でするりと頬を撫でた。

「顔、紅いぜ?」
「な、な、何をされる…っ!!」

幸村は身を捩って政宗を押し退けようとした。だが、女物の着物を纏っているせいで華奢に見えるが、実は政宗の方が幸村よりも体躯が良いし力も強い。逞しい腕で押さえつけられて身動きもままならず、幸村はどうにか政宗から顔だけ逸らした。

「こっち、見ろよ」

相手を意のままにするのが当たり前だとでもいうように、政宗が命じる。高慢な物言いだがその声はなんとも甘く優しく、幸村の耳に響く。それに抗う事ができず、おずおずと政宗に目線を戻すと、政宗の左目に満足げな色が宿った。

「Good boy…」

政宗の親指がつい、と幸村の唇を撫でる。幸村はぶる、と身を震わせて、思わずぎゅっと瞼を閉じた。と、次の瞬間、熱く濡れた感触が幸村の唇を覆った。

(え…?)

生まれて初めて味わう感覚に、幸村は薄く目を開けた。すぐさま目に入るのは政宗の端正な顔。互いの唇が触れ合っているのだと幸村が理解するまでに、暫しの時を要した。そして、理解した瞬間に、胸の鼓動が大きく跳ねた。

(あ…!!!)

幸村が再びぎゅっと眸子を閉じたのに気づき、政宗は軽く口許を上げ、人差し指で幸村の唇を割って、深く口付けた。幸村の胸の上にそっと手を置いてみると、心音が激しく高鳴り、身体が小刻みに震えており、緊張がありありと伝わってくる。合わせた唇の下、政宗は小さく呟いた。

「アンタ、ホントに初めてなんだな」
「ん…」

熱に浮かされたような熱い吐息の下、幸村が切なげな声を漏らす。その声に誘われるように、政宗は幸村の咥内に深く舌を差し入れた。柔らかい粘膜が絡まり合い、幸村の身体を不思議な快感が貫く。政宗に導かれるままに幸村が舌を差し出すと、政宗はそれを強く吸った。

「政…宗…殿………」

無意識のうちに、政宗の背に回した腕に力が入る。政宗は幸村の腹の辺りを探り、片手で器用に袴の腰紐を解くと、そのまま手を滑らせて下腹部へと侵入させた。昂り始めた己自身を包まれて、薄く消えかけていた幸村の意識が俄かに呼び戻され、はっと我に返った。

「な、何をされる…ッ!!」

幸村は覆い被さっていた政宗の身体を押し退けて飛び上がるように身を起こし、慌てて袴を引き上げた。

「何って、決まってンだろ。ここは廓で、アンタは客。ならば、やる事は一つ…」

熟れた林檎のように頬を紅くした幸村をしげしげと眺めながら、政宗がさらりと答える。幸村は、額から滴り落ちる滝のような汗を袖口で拭いながら、声を大にして反論した。

「そ、某はそんなつもりでここに来たのではないでござる…!!」
「でも、勃ってただろ」
「…な…ッ!!!」

幸村は羞恥で顔から火が出そうな思いにかられ、首筋までを紅く染め上げた。だが図星を突かれてぐうの音も出ない。ぶるぶると身体を震わせながらようやく、幸村は思いつく精一杯の罵声を浴びせかけた。

「まっ、政宗殿の馬鹿ッ!!破廉恥!!」

幸村はすっくと立ち上がると、政宗にくるりと背を向け、勢いよくばん、と障子を開け放った。後ろから見える耳朶まで紅い。政宗は呆気に取られたように二、三回、左目を瞬いたが、やがて、声を立ててくっくっと笑い始めた。

「な、何が可笑しいのでござるかッ!」
「いや…悪ィ悪ィ。でも…アンタ最高だな」

身を捩って笑う政宗の姿を見て、幸村はむっとしたように眉間に皺を寄せて頬を膨らませた。

「そ、某帰らせていただくでござる!」
「Ah、また来いよ…」
「も、もう来ないでござるッ!!」

幸村はそう言い放つと、部屋を飛び出し、逃げるように廓を後にしていった。政宗は再び煙管を手に取って窓辺に行き、走り去る幸村の後姿を、さも楽しげに見送っていた。





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「そりゃあ、恋ってもんでしょう」
「なッ…!!」

慶次がのんびりと茶を啜りながら言った。幸村は思わず、頬張っていた団子を喉に詰まらせそうになり、俄かに咳き込んだ。

「い、今の話で何故そういうことになるのでござるか…!某は政宗殿の事が好きだなどと、一言も言ってないでござる!」
「だって幸村、さっきからそのマサムネドノの話しかしてないよ?」
「そっ、それは…!」

慶次はちらりと幸村の顔を見、もう一服、茶を喉に流し込んだ。普段ならば勉学だの書物だのの堅い話ばかりしかしない幸村が、顔を合わせた瞬間から堰を切ったように、政宗の事を捲し立てるように話し出したのだ。いつも幸村の話の中に出てくる人物といえば、敬愛する師・武田信玄と、家族同然に育ってきた猿飛佐助くらいであり、ほんの束の間共に過ごしただけの人間にこれ程まで拘ることは珍しい。

「好きじゃないんなら、そんなに拘ることないじゃん?」
「し、しかし某、あのような事、初めてだったのでござる…!」
「幸村にとっちゃ初めてでも、向こうは名うての太夫だろ?そう言っちゃあなんだけど、何十人といる客の中の一人にすぎないぜ?もう忘れてるかもしれないし」
「う…」

慶次の言葉を聞いて、幸村は押し黙ってしまった。行きずりの存在。分かってはいたことだが、改めて思い知らされ、胸の奥がきりきりと痛む。幸村は思わず胸に手を当て、俯いてきゅっと唇を噛んだ。

「まぁ、端っから身分違いもいいとこだもんな。かたや界隈一の人気太夫、かたやしがない一書生。声を掛けられたってぇだけでも、夢みたいなもんだよ。普通に考えりゃ、一生手の届かない存在、高嶺の花だからなあ」

畳み掛けるように慶次が言う。残酷な現実を突きつけられたようで、幸村の目頭がじわりと熱くなった。

「そ…そう、だな。声を掛けてきたのも、廓に連れて行ったのも………一時の気紛れだったので…ござろうな。もう、某の事など忘れておられるであろう…」
「…でも、好きになっちまったんだろ?」
「そのような、ことは…ござらぬ…」
「じゃあなんで泣いてるのさ」
「…えっ」

慶次の言葉に驚き、幸村はぱっと顔を上げた。と、膝の上にぱたぱたと熱い雫が滴り落ちる。そっと顔に手を触れてみると、大粒の涙が眦から零れ、後から後から頬を伝い落ちている。

「なっ、なんで…」

幸村は動揺し、着物の袖口で乱暴に目を擦り、涙を拭った。慶次の肩の上で夢吉が心配そうに幸村を見ている。慶次は小さく息を吐いた。

「マサムネドノの事を考えると、胸がきゅーっと苦しくなるんだろ?」
「…」
「訳もなく辛くて、それでもマサムネドノの事が頭から離れないんだろ?」
「…」

幸村は黙って、それでも小さくこくりと頷いた。慶次が肩を竦め、やれやれといったように軽く笑う。

「…会いに行けよ、幸村。マサムネドノにさ」

思いもよらぬその言葉に、幸村は驚いたように目を丸くして慶次の顔を見た。

「そ、そんなの無理に決まっているでござろう!前田殿も言ったではござらぬか、身分が違いすぎると」

慶次はぽんと幸村の肩に手を置き、悪戯っぽい笑顔を見せて、自分の胸をばんと叩いてみせた。

「ま、その辺はこの前田慶次にお任せあれ、ってな!さ、そうと決まったら善は急げ、だぜ!」

そう言うと慶次はすっくと立ち上がり、茶屋の娘に茶代を渡すと、すたすたと歩き出した。幸村は一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、ぎゅっと拳を握り、不安と期待を胸に、風来坊の後を追った。






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「たのもーっ!!」
「ま、前田殿…、討ち入りではないのでござるから…」

慶次が大声を出したので、幸村は慌てて慶次の着物の袖を引っ張った。政宗の居る妓楼の門は固く閉ざされていたが、やがて重々しい音を立てて扉が開き、中から番頭新造が顔を覗かせた。

「まあ、前田の慶次さんやないですか…」
「へへっ久しぶりだね!…悪いけど、太夫に取り次いでもらえないかな?」

慶次がにこりと笑いながら言うと、番頭新造は困ったように顔を曇らせた。

「太夫を…?いくら慶次さんのお頼みでも、太夫への取り次ぎは…」
「分かってるよ、しきたりがあるって事はさ。無理は承知の上だ。でも、そこをなんとか、頼むよ!」

慶次は両の掌をぱんと打ち合わせ、祈るような格好で深々と頭を下げた。番頭新造は益々困惑したように、慶次と幸村の姿を見比べた。

「前田殿、もうよいでござる…。あまり人を困らせては…」

幸村が言いかけた時、郭の奥から一人の若い遊女が足早に走り出てきて、番頭新造になにやら耳打ちをした。番頭新造はやや驚いたような顔で頷き、慶次と幸村に向かって言った。

「慶次さん、お顔を上げてくださいまし…。太夫がお会いになるそうです」
「本当かい!?」

慶次はがばと顔を上げ、満面の笑みを浮かべると、幸村に向かって片目を瞑って目くばせしてみせた。

「言ってみるもんだろ?」
「前田殿………かたじけない」

幸村は恭しく腰を折り、慶次に礼を述べた。慶次は少し照れ臭そうに鼻の頭を擦り、入り口の方を顎で杓った。

「さ、行ってきな」
「えっ、某一人で…!?前田殿は…?」
「おいおい…俺が一緒に行ったってどうしようもないだろ?そんな野暮はしねえさ!」
「し、しかし…」

不安げな色を浮かべる幸村の背中を、慶次は勢いよくばん、と叩き、力強く言い放った。

「大丈夫だって!兎に角、会って自分の気持ちを伝えてみろよ!命短し、人よ恋せよ、だぜ!!」

幸村はごほ、と咳き込み、背中を擦りながら苦笑した。

「わ…わかり申した。前田殿、いろいろとありがとうございまする。この礼はかならず…」
「いいっていいって!それより早く、行った行った!」

慶次が幸村に向かってひらひらと手を振ってみせる。幸村は軽く会釈して、番頭新造と共に、政宗の待つ廓の中へと入っていった。





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「お客人をお連れいたしましたえ」

番頭新造が障子の向こう側に声を掛ける。薄暗い部屋の中では行燈が灯り、障子に人影を映し出している。影の形で間違いなく政宗だと分かり、幸村は緊張で身体を強張らせた。

「入れ」
「失礼いたします」

番頭新造がゆっくりと障子に手をかけ、からからと開けた。促されて幸村が部屋の中をこそりと覗き込むと、中央に床が述べられ、その上で政宗が横たわって、悠々と煙管を吹かしている。

「ささ、どうぞ」
「し、失礼いたしまする」

幸村はぎこちない足取りで座敷の敷居を跨いだ。甘い香と政宗の燻らす煙草の香りが立ち込め、一瞬、幸村の意識がくらりと揺らいだ。

「では、私はこれにて…」

番頭新造は頭を下げて退出し、ぱたりと静かに障子が閉められた。後に残された幸村は何をどうしてよいのか分からず、困ったように部屋の中に目を泳がせた。先だって来た時と変わらず、あちこちに質の良い豪華な調度品が飾られている。その中に横臥する政宗の姿はなんら違和感なく室内の風景に溶け込み、まるで一枚の美しい絵画のようであった。幸村は己がこの座敷に不釣合いな事を俄かに自覚し、居心地の悪さに足の指をもぞもぞと動かした。

「Hey、何突っ立ってンだよ」

政宗がゆっくりと幸村を見上げ、ぼそりと呟いた。

「えっ」
「えっ、じゃねえよ。突っ立ってねぇで座ったらどうだ」
「は、はい…」

幸村は急に声を掛けられた事に驚き、言われるがままに慌ててその場に腰を下ろして正座した。畏まったその姿を見て、政宗は鼻先でふっと笑った。

「…相変わらず、鯱張ってンな、アンタは」
「も、申し訳ござらぬ」
「…別に、謝ることじゃねぇだろ」

政宗は一つ煙を吐き出すと、手にしていた煙管を煙管盆の上に置き、ゆっくりと身を起こした。しどけなく肌蹴た着物の裾から見える肢体が仄灯りに照らし出され、妙に艶かしい。幸村は目の遣り場に困り、焦って視線を外した。

「…で?」
「…え?」
「え、じゃねぇよ。何か用があるから来たんだろ」
「…!」

いきなり核心に触れられて幸村はどぎまぎした。自分の素直な気持ちを伝えればいいのだと慶次に言い含められて来たが、互いの身分差を考えれば相手にされよう筈がない。けんもほろろに往なされて追い返されるのが落ちだという考えが頭を過ぎり、幸村は黙り込んでしまった。

「…用はねぇのかよ」
「…ご、ござらぬ」
「用もねぇのに来たってのかよ」
「う…」

詰め寄られて幸村の頬を汗が伝い落ちる。緊張のあまり喉がからからに渇き、声が掠れた。そんな様子を政宗の隻眼が鋭く捉える。

「じゃあ、何しに来たんだよ」

政宗の気分を損ねてしまった、と思い、幸村は身を縮こめた。蛇に睨まれた蛙のように身動きを忘れ、膝の上で握り締めた拳を小さく震わせる。何か言わなくてはと思う気持ちとは裏腹に言葉が出てこない。口下手で実直な幸村には、その場を上手く取り繕うような器用な言葉を探すことなど無理な話である。焦りで頭の中が真っ白になった幸村は、無意識のうちにごくりと唾を飲み込んで、熱に浮かされたように唇を動かした。

「ま、政宗殿に、お会いしとうて…!!」

思わず言ってしまった後にはっと我に返り、幸村は口に手を当ててぎゅっと目を瞑った。呆れられたことだろうと、その場から逃げ出したいような衝動に駆られた時、暖かい手がすっと幸村の頬を撫でた。幸村が怯えたようにおずおずと瞼を持ち上げてみると、そこには、小さく笑みを浮かべる政宗の顔があった。

「それが、聞きたかった」
「えっ…」

政宗は幸村の身体をぐいと引き寄せると、その胸の中にぎゅっと収めた。

「ま、政宗殿…!」
「俺はあれからずっと、アンタの事を考えていたぜ、真田幸村」
「えっ…ど、どうして某の名を…!?」

政宗は幸村の髪をくしゃりと掻き混ぜながら、耳元に唇を近寄せて囁いた。

「調べさせた」
「な、何故…」
「名前も分かんなきゃ、アンタにもう一度会えないだろ?」
「そ、それはどういう…」

政宗の甘い声を間近で捉え、幸村は激しく動揺しながら訊いた。幸村の問いかけに苦笑しながら、政宗はそっと幸村の顎を持ち上げ、唇を合わせた。

「アンタ…ホントに鈍いな」
「…」

政宗は幸村の頬を両手で包み込んだ。政宗の舌が幸村の咥内を探り、深く追う。幸村は身を強張らせ、政宗の着物の胸元をぎゅっと掴んだ。政宗の落とす慣れたような口付けを、幸村はぎこちなく受け続けて、身体に熱を宿した。

「政宗…殿…」

先程の問いに対する答えを強請るように、荒い吐息の下から幸村が呟く。政宗はその吐息を吸い取った後、そっと幸村の身体を抱え、ゆっくりと床に倒した。

「知りたいか」

政宗の口角がやや意地悪げに上がる。幸村は目を潤ませながら、それでも不満そうに少し口をへの字に曲げた。

「…焦らさないで…下され…」

政宗は幸村の火照った頬にひたと右手の甲を当てると、徐に己の身体を幸村の上に重ねた。そっと胸元を寛げてやり、形の良い鎖骨の下を強く吸うと、幸村の身体がびくりと跳ねた。

「あ…」

拒むように幸村が小さく身を捩る。政宗は構わず、幸村の敏感な部分を探るように、胸元に舌を這わせた。

「あッ…んん…」

幸村がきゅっと唇を噛む。政宗は優しく愛撫を続け、幸村の白く瑞々しい肌に紅痕を刻んだ。刻まれる度に幸村の身体がひくりと反応し、口許から小さく吐息が漏れる。

「まさ…む…ど…、ずる…ぃ…」

懸命に喘ぎ声を押し殺し、意味を成さない言葉を発する幸村を満足気に眺めながら、政宗は一つ舌舐めずりをした。そしてゆっくりと、幸村の袴の腰紐を解き、するりと手を滑り込ませると、昂りを見せている幸村自身をきゅっと包み込んだ。

「…!ぁあ…ッ!!」

身の内を貫く快楽に抗えきれず、堪えていた声がついに上がる。幸村は思わず、政宗の広い背中に腕をまわしてその身体に獅噛み付いた。善がって震える幸村の身を政宗は左手で優しく擦り、右手では甚振るように幸村自身を弄った。

「いや…あッ…」

幸村の昂りに煽られるように、政宗の吐息も荒くなる。互いの熱を交わすように激しく唇を重ねると、政宗は左目を眇めて、低く囁いた。

「…一目惚れ、だったんだよ」

その言葉を耳にして、幸村がぴくりと反応し、眼がゆるりと開く。黒目がちな濡れた瞳が政宗の顔を捉え、暫し視線が交差した。幸村はするっと右手を伸ばして政宗の頬にそっと触れ、柔らかく微笑んでみせると、再び静かに瞼を閉じた。

どこからともなく、甘やかな琵琶の音が聞こえてくる。別の座敷で、遊女が客の為に奏でているものであろう。幻想的な音色と政宗の熱に包まれて、幸村の意識はどこか遠くへと誘われていった。





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幸村ははあはあと息を切らせて、表通りを政宗の待つ妓楼へと走っていた。

互いに一目で惹かれ合った二人は、蔓が絡まりあうように相手を求め合い、逢瀬を重ねていた。廓だけではなく、街中でも仲睦まじく寄り添いあう二人の姿は、瞬く間に広まった。それもそのはず、稀代の高級男娼と、富も名声も無い、しがない書生の組み合わせは、それだけで衆目を集め、好奇の的になる。誰にも心を許す筈のなかろう政宗が書生と恋仲になったと、人々は口々に噂し合い、街はその話で持ちきりになっていた。

「ほら、あの人が例の…」
「ああ、太夫の…」

道行く人々が幸村の姿を見、ひそひそと囁き合う。幸村も勿論、自分の事が噂に上っている事は知っていた。ただ、自分は一向に構わないが、政宗に醜聞が及んでいる事に心を痛めた。それでも、会いたいと思う気持ちには歯止めがきかず、政宗からの使いの者がやって来れば、こうして一目散に政宗の元へと足を向けてしまう。生まれて初めて知った、迸るような恋心に突き動かされ、幸村は脇目も振らずに走った。

妓楼の前で足を止め、大きく深呼吸をして乱れた息を整えた幸村は、こそりと中を覗き込んだ。もう幾度となく訪ねているとはいえ、遊郭の中に入るのはまだ些かの抵抗があった。いつもならば、中に居る誰かが幸村の姿を認め、政宗の元へと案内してくれるのだが、今日はなにやら様子が違う。皆忙しなくばたばたと動き回り、慌しい空気を醸し出している。何かあったのかと怪訝に思った幸村の目の前を、既に顔馴染みになった見習い遊女が通りかかった。

「あの…すみませぬ」
「…!これは、幸村様…ようこそ、いらっしゃいました…」

平素なら明るく挨拶をしてくる遊女の表情が、今日はやや曇り気味である。益々訝しく思った幸村は、遊女に訊ねた。

「あの…何事か、あったのでござろうか?」
「あ…いえ、その…」

遊女はもごもごと口篭り、まるでこれ以上は言えないというように、着物の袖で口許を隠してしまった。

「まさか、政宗殿に…何か?」
「…!」

幸村に問われ、遊女の顔色がさっと変わった。幸村は思わず遊女の腕をぐいっと掴み、真剣な眼差しで詰め寄った。

「何があったのでござるか!?教えて下され!」
「その子を離してやって下さりませ、幸村様」

声にはっとして幸村が振り向くと、後ろに番頭新造が立っている。番頭新造は小さく会釈して、凛とした声で言った。

「太夫がお待ちでございます。どうぞ中へ」





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不安な気持ちを抱え、促されるままに政宗の座敷の前に通された幸村は、おずおずと中に目を遣った。もう日も落ちているというのに行燈も灯されておらず、部屋の中は薄暗い。政宗は居るのかと、目を凝らしてみると、窓を開け放ち、露台に身体を凭れかけてぼんやりと外の風景を眺めている政宗の姿があった。

「…政宗殿」

恐る恐る声を掛けられ、政宗は気怠げに幸村の方へ顔を向けた。いつもならば時が惜しいとばかりに幸村を招き入れる政宗らしくなく、ただ無言で幸村の顔に視線を注ぐばかり。幸村は小さく頭を下げ、自ら座敷の中へと入って、政宗の前に正座した。

「…何か、あったのでござるか」

遠回しな物言いの苦手な幸村は、真っ向から政宗に訊ねた。政宗はしげしげと幸村の顔を眺めていたが、やがて鼻先でふっと苦笑した。

「…アンタは、本当にStraightだな」
「…?」

通りを行き交う人々の手にする提灯の灯りがちらちらと揺れ、政宗の顔を照らしては消えゆく。仄灯りに浮かびあがる政宗の横顔は端正で、見惚れるほどに美しい。その形よい唇がゆっくりと動き、言葉を紡いだ。

「身請けが決まった」
「…え!?」

幸村は大きく目を見開き、息を呑んだ。俄かには受け入れ難い言葉に、身体が硬直して動かない。政宗の言葉を飲み下すのにかなりの時間を要し、ようやく幸村は口を開いた。

「み、身請けとは…ど、どこの誰に…」
「それは言えねぇ…が、前から俺の馴染みだった客さ。アンタと俺の噂を聞きつけて、頭に血が上ったらしい。閉じ込めて自分だけのモンにしちまおうって腹さ。…全く、見苦しいな、男の嫉妬ってヤツは」

抑揚のない声で政宗が淡々と話す。感情を押し殺しているようだが、煙管を持つ手が小刻みに震えているのを、幸村は見た。政宗ほどの男娼を身請けできるなど、相当の地位と財力を持った者であろう。名を言えぬという事でうすうす相手の身分を察し、幸村は唇をぎゅっと噛んだ。

「そ、それを受けられたのでござるか!?」
「断る事なんざできねェからな…そう決められちまったら、どうする事もできねぇだろ」
「身請けされてしまったら…二度と会えぬのでござろう?」
「Ah…会えねぇだろうな」

政宗の気の無い受け答えに業を煮やした幸村は思わずすくと立ち上がり、声を荒げた。

「ま、政宗殿は、それでもよいのでござるか!?」

言い放った瞬間、幸村の顔のすぐ横を何かが掠め飛んでいった。それは壁にぶつかり、からんという音を立てて床に落ちた。音の方向に目を遣ると、政宗が手に持っていた煙管が転がっている。煙管を幸村に向かって投げつけた政宗は、激しい怒りの色を左目に湛え、勢い立ち上がった。

「…良い訳ねェだろうが!!」

今まで見たこともない迫力に気圧され、幸村は一歩たじろいだ。政宗はずいと手を伸ばし、幸村の胸倉を荒々しく掴んで引き寄せた。

「誰が望んで、ンな好きでもねぇ野郎の処へのこのこ行くかよ!閉じ込められるなんざ真っ平御免だぜ!アンタにもう二度と会えなくなっちまうのもな!…だがな、俺みてぇなしがねえ男娼風情にはどうしようもねェ事があるんだよ!」

堰を切ったように感情を爆発させ、捲し立てるように怒鳴った後、政宗は大きく息を吐き、力無く項垂れた。

「…それが、浮き世の理ってヤツだ…」

非情な現実を突き付けられて、幸村は言葉を失った。怒りか失望か、政宗の身体がぶるぶると震えている。幸村は黙ってそっと肱を伸ばすと、政宗の背中をかき抱いた。

(二度と…会えない…)

幸村は頭の中で、その言葉を何度も何度も咀嚼した。言葉が巡る度に胸奥がひいひいと悲鳴を上げ、目頭がじわりと熱くなった。政宗は何も言わずに幸村の肩口に身をあずけていたが、その心の内は痛いほどに伝わってくる。

「嫌だ…」
「…え?」
「嫌でござる!某も、政宗殿に二度と会えなくなるなどと…、政宗殿の居らぬ人生など、考えられぬ!」

幸村の眼からぼろぼろと大粒の涙が零れた。心の奥底から湧き上がるような熱い涙が後から後から溢れ、止め処なく幸村の頬を伝わり落ちる。政宗は困ったような顔を見せ、その涙をそっと舌先で掬った。

「My dear…」

幸村の落涙の跡を舌でなぞると、政宗はそのままその唇を幸村の花唇に触れ合わせた。月明かりに照らされた障子の上に、重なり合う二つの影が映し出される。互いの想いを確かめ合うように深く交わる二人の姿は、やがて深い夜の中へと吸い込まれていった。





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心地良い倦怠感を覚え、幸村は仰向けのままぼんやりと天井を眺めていた。隣で、政宗が香を焚いている。甘い香りに鼻を擽られて、一つ小さく溜息を吐くと、露わになった幸村の臍の辺りに政宗の大きな手が伸びてきた。

「うわっ!!」

突如、腹を撫でられて俄に驚いた幸村は、思わず甲高い声を上げた。

「い、いきなり何をされる…ッ!」
「アンタ、学問ばかりしてる青瓢箪かと思えば、実はいいカラダしてるよなァ」

動揺する幸村の顔を眺め、政宗は可笑しそうにくっくっと笑い声を立てた。

「は、破廉恥な…!」
「何を今更?アンタの身体なんて、隅から隅まで嫌というほど見てるぜ?」
「なッ…!!」

幸村は顔を真っ赤に染め上げて、下腹部に掛けられていた政宗の着物を引き上げ、それを身に纏って裸体を隠した。

「何だよ、事の最中はあんなに大胆になるくせに?」
「そ、そのような、こと…!」

何時もと変わらぬ政宗の軽口を聞いて、幸村は少し表情を緩めた。しかし、これが最後の逢瀬になるやもしれぬと思うと、心の奥を暗い影が覆ってゆくような気持ちに駆られた。幸村が言葉を途切れさせたのを見、政宗はごろりと俯せになって、両腕に顎を埋めた。

「…アンタに」
「え…?」
「アンタに会えなくなるくらいなら…」

政宗は一つ息継ぎをし、幸村の方へ顔を向け、その瞳を見詰めた。

「…いっそ、死んじまうか」
「…!」

思いも寄らぬ政宗の言葉に、幸村はがばと身を起こした。そして、政宗の言葉を否定するように大きく左右に首を振った。

「馬鹿な事を申さないで下され!死んで花実が咲くものでござるか!!生きていてこその人生でござる!」
「生きている方が地獄、って事だってあるさ…」

政宗はそう呟くと、悲しげに微笑み、ふいと幸村から顔を逸らした。政宗の心情を慮り、切なさで胸が溢れそうになった幸村は、すっと手を伸ばして、そっと政宗の髪に触れた。絹糸のように柔らかい政宗の髪は、幸村の指の中をするりと滑り落ちていった。まるで、幸村の幸せも共に手の中から零れ落ちてゆくように。

「…政宗殿」
「何だよ」
「約束して下され。…どんな事があっても、自ら生を投げ出すような真似はせぬと」
「…」
「政宗殿!」

幸村が大きな声を上げると、政宗はやれやれといったように鼻先で笑い、薄く開けていた左瞼を伏せた。

「…Alright、分かったよ」
「真にござるか!?」
「くどいな、本当だって。嘘は吐かねェ」

政宗の返事を聞いて、幸村はほっとしたように胸を撫で下ろした。今生、政宗に会えなくなるという事は、身を切られるように辛いが、政宗がはかなくなってしまうなど、考えただけで背筋が凍るような思いがした。生きてさえいてくれれば、またどこかで巡り会う事もできるやもしれぬ。儚い希望にすがるような気持ちで、幸村は寂しげに微笑むと、政宗の傍に顔を近寄せ、そっと耳朶に口付けた。

東の空は薄紅に染まり始め、この郭で相見える二人の最後の夜が、程無く明けようとしていた。





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知らせが来たのは、その翌晩だった。

「幸村、幸村!!起きるんだ!!」

家の外から聞こえる怒声に、幸村は急いで身を起こした。もとより眠れてはいない。政宗のことばかりが頭を離れず、勉学も手につかぬ状態で一日を過ごし、布団に入っても目が冴えて、天井を見据えたまま、ぼんやりと物思いに耽っていたところであった。

「何やってるんだよ!早く起きろ!!」

外の声は益々、苛立ちを増したように幸村を急き立てる。幸村は慌てて布団の脇に畳んで置いてあった袴を手に取って身に纏うと、急ぎ土間に降りて引き戸を開け、戸口の向こうに立っている人物を確認した。

「…前田殿?」

そこには、血相を変えた慶次の姿があった。幸村の家まで走ってきたらしく、肩で息をしている。

「このような夜更けに、如何なされた?そのような大声を上げては、近隣の方々に迷惑であろう…」
「迷惑もへったくれもあるもんか!それどころじゃねえ、火事だ!!太夫の郭が燃えてる!!」
「…えっ!?」

幸村は一瞬、我が耳を疑って立ち尽くした。事態が把握できず、呆然とする幸村の腕を、慶次は乱暴に掴んだ。

「いいから早く来い!!」

慶次は幸村の腕をぐいぐいと引っ張り、そのまま郭の方へと引きずっていった。幸村は未だに混乱したまま、蹌踉けながら慶次に引っ張られるまま、郭へと急いだ。慶次の言葉を疑う訳ではないが、郭が燃えているなど、その目で見るまでは俄には信じ難い。だが、いつもと違う街の様子に、ただならぬ騒ぎが起こっている様が見て取れた。

「な、なんだ!?こんな夜更けに、こんなに沢山の人が…」

普段ならば、みな寝静まっている刻。通りを行き交う人もまばらで、たまに夜回りの拍子木の音が聞こえるくらいである。だが今日は、騒ぎを聞きつけた町人達が大勢、郭の方に流れて行く。

「太夫の郭から火がでたそうよ…」
「逃げ遅れている者も居るらしいな…」

町人達が口々に噂するのを聞きつけて、否が応でも、幸村の胸中に不安が満ちてゆく。

(…政宗殿…!)

火事の規模は如何ばかりか、政宗は無事なのかと、そればかりが気懸かりで、押し潰されそうにぎりぎりと胸が痛む。幸村はただひたすらに、人熱れの中を走った。郭の近くまで来た時、幸村の目に異様な光景が飛び込んできた。

「こ、これは一体…!?」

真夜中の筈なのに、空が真昼のように明るい。むわっとするような異様な熱気は、集まった人々のものだけではないようだ。

「火消しはまだか!なにをもたもたしてやがる!!早く呼んでこい!!」

郭の前には黒山のような人だかりができ、若い男衆の間で怒号のような声が飛び交っている。幸村と慶次は、混乱する人々の間を縫って、なんとか最前へと押し進んだ。そして、眼前に広がる光景を目にし、茫然自失に陥り、絶句した。

「これは…」

夜空を照らす赤々とした焔。それはまるで、御伽噺で聞く、地獄の生き物のようにゆらりゆらりと不気味に蠢き、激しく逆巻いて郭を覆い、飲み込もうとしている。熱い風が上空に吐き出され、炎を伴った旋風が巻き起こった。熱された空気を肺に取り込み、幸村は息を詰まらせて咄嗟に着物の袖で口許を覆った。

「ぐっ…ごほっ、ごほっ…!」
「大丈夫か、幸村?」
「そ、某は平気でござる…!そ、それよりも、中に居られる方々は…」

炎上する郭を見詰め、慶次は沈痛な面持ちで途切れ途切れに言葉を出した。

「気の毒だが…これじゃあ…逃げ切れない…」
「…そんな!!」

幸村は眉を寄せ、再び炎上する郭を見上げた。耳を凝らせば、群衆のざわめきの間を縫って、熱い、苦しい、助けて、と、郭の中から助けを求める遊女の声も聞こえてくる。幸村は居ても立ってもいられなくなり、飛びだそうとしたが、慌てた慶次に腕を掴まれた。

「何しようってんだ、幸村!!」
「…この惨状を、見捨ててはおけぬ!」
「だからって、あんたに何ができる!飛び込んでいったって、炎に巻かれて犬死にするのが落ちだ!」
「う…!」

幸村は己の無力さにぎりっと歯噛みした。猛火は容赦なく郭を包み、あちこちから激しい破裂音がした。と、炎の中から一人、逃げ延びた遊女がよろよろと蹌踉めきながら歩み寄り、幸村の目の前で崩れ落ちるように倒れ込んだ。

「あ、あんた、大丈夫かい!?」

慶次が慌てて遊女を抱き起こした。遊女は切れ切れの息の下、苦しげに呻いた。

「み、水…水を…」
「誰か!水をくれ!急いで!!」

ようやく到着した火消し組の男が、慌てて水入れを持ってきた。慶次は遊女の口に水入れを充てがい、喉に流し込んでやった。

「あ、りがとう、ございます…」
「ああ、あちこち火傷をしているな。でも命に別状はなさそうだ。早く手当をしてもらうといい」
「ま、まだ中に…大勢、逃げ遅れている者が…」

遊女の言葉を聞いて、幸村は厳しい顔で、遊女に詰め寄った。

「政宗殿は…政宗殿は…!!」
「た、太夫は…」

遊女が震える指で、郭の二階を指す。幸村はそれを目で追った。その先にあるのは、政宗の座敷。幸村が何度も通い、政宗と情を交わした、あの空間である。今はそこも逆巻く業火に包まれ、飲み込まれている。まるで全てを消し去ろうとするかのように。幸村の胸中に万感の思いが去来し、思わずぐっと込み上げるものがあった。

そして、幸村は見た。

炎の海の中、窓辺で露台にもたれ掛かり、優雅に煙管を燻らす政宗の姿を。

「ま、政宗殿…!!」

幸村は顔色を失った。そこには激しい火柱が上がり、既に柱や梁も燃え落ち崩れつつあったからだ。

「政宗殿ーーーー!!!お逃げ下されェーーーーー!!!」

窓の下、幸村は、声の限りに必死に叫んだ。幸村の声が届いたのか、政宗はゆるりと顔をこちらに向け、幸村の姿を認めると、静かに微笑んだ。幸村が政宗を訪ねて郭に行けば、いつも政宗は窓辺に座って幸村を待っており、幸村に向かって嬉しそうに手を振ってきた。そして今も、まるで炎など上がっていないかのように、政宗は穏やかな表情で、幸村に手を振った。

「政宗殿ーーーー!!!政宗殿ぉおおおーーーー!!!」

幸村は咄嗟に、炎の中へと飛び込もうとした。燃え盛る郭に進み入ろうとする既の所で、後ろから慶次に羽交い締めにされた。

「幸村ッ!死ぬ気か!?」
「前田殿…ッ!止め立てしないで下され…ッ!!」
「そうはいかねえ!!自ら死にに行こうとする奴を、みすみす見過ごす事なんてできねえよ!」

幸村は必死に藻掻いたが、体躯の良い慶次に取り押さえられて身動きを取ることができなかった。悔しさと何もできない歯痒さに力一杯ぎりりと奥歯を噛み締め、幸村は声が枯れるまで政宗の名を呼び続けた。

やがて、郭は炎の竜巻に包まれて、政宗の姿を飲み込んだまま、完全に燃え落ちた。





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「忘れもんはないかい?幸村」
「大丈夫でござる。…まこと、色々とお世話になり申した。かたじけない、前田殿」

きれいに片付いた部屋の中、幸村は姿勢良く正座し、慶次に向かって深々と頭を下げた。慶次は照れ臭そうに鼻の頭を掻き、頭の後ろで腕を組んだ。

「気にすんなって!」
「いや、前田殿のご尽力のお陰で、こうして欧州に渡り、学問を続ける事ができるのでござる。真田幸村、このご恩は一生忘れぬ」
「へへっ、改まってそう言われると、なんだか尻がむず痒くなるねぇ」

軽く戯けてみせると、慶次はふと遠くを見るような目で、ぽつりと呟いた。

「あれからもう半年か…」

その言葉を聞いて幸村は俯き、瞼を伏せた。

「あぁ、すまない幸村…辛い事を思い出させちまって…」

「いや…よいのでござる…」

慌てて口籠もる慶次を気遣い、幸村は笑顔を作ってみせた。

「もう…半年も経つのでござるな…」

政宗の郭から火が出たあの日から、半年が経過していた。幸村にとっては、短いような、長いような時間であった。界隈一の規模を誇り、最高級の遊女を大勢抱え、栄華を極めた郭は、大火で焼け落ち、跡形もなく灰燼に帰し、多数の犠牲者を出した。かろうじて生き延びた者も何人か居たが、その中に政宗の姿を認める事はできなかった。

「まぁ、なんにしろ俺はほっとしているよ。抜け殻みたいだったあんたが、ここまで立ち直ってくれたんだからな」
「ご心配をかけて、誠に申し訳ない…」
「だーかーら、気にすんなって!」

明るく笑い飛ばしたが、慶次は内心、心底安堵していた。政宗を失ってしまった幸村は、あれ程打ち込んでいた学問どころか、寝食すらも忘れ、まるで生きた屍のようであった。

「前田殿にも、佐助にも、お館様にも…色々とご迷惑をお掛けした…」

生きる希望を失くした幸村を心配し、慶次と佐助が代わる代わる様子を伺いにやってきて、面倒を見た。少しでも幸村の心を解そうと、その日に街であった出来事を話したり、時には外に連れ出したりした。それでも、幸村の虚ろな瞳が物を映すようになるまでには、相当の時間を要した。

「幸村、お主、海の向こうで学んでみる気はないか」

武田信玄が幸村にそう切り出したのは、ようやく幸村に人間らしい表情が戻ってきた頃であった。日本の学問が世界へと開かれ、渡航して、外国の優れた知識や文化を吸収しようという若者が増え始めている時代。幸村も、それを願った事が無かった訳ではないが、自分のような貧しい一書生には到底無理なことと、諦めていたのであった。

「学びとうござります…が、某には、そんな大金はとても…」
「それ、俺に任してみねえか?」

金銭的な事情を理由に辞退しようとする幸村に、援助を申し出たのは慶次だった。浅からぬ付き合いで、幸村がずっと真面目に勉学に打ち込んでいた事はよく知っているし、その能力を国内に止めておくのは勿体無いと思ったからであった。そしてなにより、今の幸村に、生きる希望を見いだしてやりたいという思いがあったのだ。

留学が決まってから、幸村達は俄に忙しくなった。慶次は金策にあちこち走り回ったし、幸村は旅券の申請や渡航に必要な準備などを整え、居留地に住んでいる外国人から言葉を学んだ。目の回るような忙しない日々の中に置かれ、幸村も新たな生活への希望を胸に抱くようになっていったが、それでも時折、政宗の事を思い出し、眠れぬ夜を過ごした。

「…なにもかも、夢であったのでござろうか…」

幸村は一つ、溜息を吐いた。政宗と過ごした甘美な日々も、全てが夢であったのならば、その方がいっそ楽だろうと思った。

「夢にしちまうのは、勿体無えよ」
「…え?」

幸村は驚いたような顔で慶次を見た。慶次は肩の上に乗っている夢吉の頭を人差し指でちょいと撫で、幸村に向かって微笑んだ。

「本気で惚れてたんだろ?」
「…」

幸村は静かに瞳を閉じた。瞼の裏には、懐かしく愛しい政宗の顔が、ゆらゆらと水に映る月のように儚く浮かび上がる。互いに想い交わし、熱く触れ合った遠い日々も。政宗の熱が確かに己の身の内に残っている事を感じ、幸村はそっと目を開けて、慶次に向かってこくりと頷いた。

「太夫さんはさ、生きているんだよ、あんたの心の中に、さ」
「…うむ」

幸村は力強く答えると、ゆっくりと立ち上がった。

「某、そろそろ行くでござる」
「ああ、もうそんな時間か。…悪いな、港まで見送りに行けなくって」
「…とんでもござらぬ、これ以上世話を掛ける訳にはいきませぬ故」
「…元気でな、幸村」
「…前田殿も」

幸村は深く頭を下げると、渡航用の荷物を詰めた大きな鞄を手に持ち、戸を開けた。良く晴れ渡った空に初夏の太陽が輝き、幸村は眩しさに目を眇めた。

「おーい、幸村」
「…?」

声を掛けられ、幸村が振り返ると、慶次が戸口に背を預けながら、右手を大きく振っていた。

「洋装、似合ってるぜ!」

幸村は小さく笑みを見せ、慶次に手を振り返すと、真っ直ぐ前を向き、港へと足を向けた。新たな人生の待つ、希望への一歩を。





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埠頭には、たくさんの大きな船が停泊し、荷物の積み卸しをする船員や、客船に乗り降りする乗客など、日本人や外国人が入り交じって、華やかな賑わいをみせていた。

「なんとも…活気があるな」

幸村は手にした旅券を握り締め、独りごちた。港を行き交う人々は皆、希望に満ち溢れ、溌剌とした表情を浮かべている。幸村も未知の異国に想いを馳せ、自然と胸が高鳴るのを感じた。

「海…か。なんと広く大きいのであろうか…」

遠くにぼやける水平線に目を遣って、幸村は感慨に浸った。今からこの広い海を渡り、新天地へと向かう。その先には何が待っているのかという期待と不安が胸の中に混在し、思わず一つ溜息を吐いた。

刹那。

海風が悪戯に、幸村の手の中から、さあと旅券を奪い取っていった。

「…あっ!」

幸村は慌てて、ひらひらと舞う旅券を追った。旅券は、花畑を飛び回る蝶のように気紛れに舞い踊り、桟橋の上で海を眺めていた洋装の男の前でふわりと一回転し、その足元にかさりと落ちた。

「す、すみませぬ!それは、某の…」

幸村は男の傍へ走り寄り、はあはあと息を切らせながら声を掛けた。男はついと屈んで旅券を拾いあげると、幸村に向かってそれを差し出した。

「…大事なモンだろ?無くしたら大変だぜ、しっかり持ってな」
「か、かたじけ…な…」

礼を述べかけて、幸村はそのまま言葉を失った。

「遅かったな。いい加減、待ちくたびれたぜ?」
「……………ま、さむね、殿…」

ゆっくりとこちらに向けられたその顔は、心に刻み込まれて離れない、懐かしく愛しい男。狐にでも抓まれたかのように、幸村は暫し呆然と立ち竦み、政宗の顔を眺めていた。驚きの余り、声も出ない。石のように固まり、動かない幸村の姿を見、政宗は軽く苦笑して、すっと手を伸ばし、頬を撫ぜた。

「なァに呆けてンだよ」
「あ…」

幸村ははっと我に返り、その存在を確かめるように、政宗の腕に触れた。

「ま、政宗…殿?本物でござるか?」
「偽物だと思うか?」
「本当に、政宗殿でござるか?」
「…くどいな、アンタ」
「まさか、幽霊などでは…」
「…足、あンだろ」

政宗はやれやれというように肩を竦め、軽く右足を持ち上げてみせた。それを見た幸村は全身の力が脱けたように、へなへなとその場にしゃがみ込んでしまった。

「…おい、大丈夫か?」

政宗は驚いて、幸村に手を差し伸べた。記憶と違わぬ、大きな手。幸村は指先を震わせながら、その手に己の手を重ね、蹌踉めきながらもなんとか立ち上がって、そのまま政宗の胸に顔を埋めた。

「政宗…殿…!!」

胸の奥底から迸る歓喜に、幸村の身体が小刻みに震え、口から嗚咽が漏れる。政宗のシャツの胸元がじわりと熱い液体で濡れそぼった。政宗は赤子をあやすようにそっと幸村の背に腕を回し、優しく擦った。

「幸村…」
「よくぞ…ご無事で…!!」
「約束しただろ?死なねェって」

小さく笑うと、政宗は幸村の顎をくいと上げ、その紅い唇に深く口付けた。

「ん…」

幸村の口から、甘い吐息が漏れる。かつて幾度となく受けた、政宗からの優しい口付け。唇を重ねている間も、伏せられた幸村の瞳からはぼろぼろと大粒の涙が、止め処なく溢れ続けていた。

「Crybaby…アンタ、男の癖によく泣くよなァ」

軽く揶揄するように、政宗の口が弧を描く。穏やかな笑顔。対照的に幸村は口をへの字に曲げ、不満そうな表情を見せ、拗ねたように呟いた。

「政宗殿が…悪いのでござる…」

政宗は鼻先でふっと笑い、人差し指で幸村の涙をついと拭うと、ぽんと肩に手を置いて言った。

「そろそろ行こうぜ。乗り遅れちまう」
「行く…って、何処へ?」
「アンタ、自分の行き先も忘れちまったのかよ?」
「え、それは、どういう…?」

戸惑う幸村に向かって、政宗はにやりと笑うと、徐に胸のポケットから旅券を取り出して幸村に手渡した。幸村がそれに目を滑らせると、掠れたインクで、幸村と同じ行き先が印字されている。

「…!」

幸村は至極驚いて目を瞠り、旅券と政宗の顔とを何度も見比べた。政宗が生きていたことも、手の中の旅券の渡航先も、未だに信じがたく夢のようで、幸村は二、三度、瞼の上を擦ってみた。

「一体、どんな魔術をお使いになったのでござるか?」

幸村の問いには答えず、政宗はただ小さく笑ってみせた。とその時、出港を告げる汽笛の音が港に鳴り響く。二人は慌てたように顔を見合わせ、共に船の方に目を向けた。

「おい、走るぞ!」

政宗は幸村を促し、船に向かって走り出したが、一瞬立ち止まって振り返り、幸村に向かって手を差し伸べた。

「はい!」

幸村はその手をしっかりと握り締め、政宗に引かれるようにして駆け出した。すんでのところで船に乗り込んだ二人は、小さく息を切らせながら、出港に間に合ったことに安堵の溜息を漏らした。

「…これで、日本ともお別れだな」

船は白い泡を立てながら、海面を滑るように進み始めた。ふつふつと生まれては消えてゆく無数の白泡を暫し眺めたあと、幸村が政宗のほうに顔を向けた。

「政宗殿」
「…ン?何だ?」
「洋装、お似合いでござるな」
「Ah、Thank you。アンタは…イマイチだなァ」

からかうように政宗が言うと、幸村がぷうと頬を膨らませる。子供のような所作に、政宗は思わず、声を立てて笑い出した。膨れっ面をした幸村も、その楽しそうな笑声につられて笑った。

眩しい初夏の日差しが水面に映り、反射して、万華鏡のようにきらきらと輝いている。青空を優雅に泳ぐ海猫の鳴き声がにゃあにゃあと港に響く。政宗と幸村は手に手を取り合い、水平線の彼方に広がる新たな世界へと、その瞳を向けた。

どこの空の下に居ても、二人で見る世界はうつくしいことだろう、と。



12/01/23 up

2010年9月発行のアンソロジー「Assort D*S」に寄稿したSS。
サイト掲載にあたり少し加筆修正いたしました。
高級男娼・政宗様と、貧乏書生・幸村のストーリーです。
パラレルなので時代設定はありませんが、江戸〜明治あたりを想像してお読みいただければ。